アクティブラーニングは、最新の学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」と言い換えられている。
これまでの学習は、「受動的・消極的」と批判されることが多かった。いわゆる「詰め込み型教育」というやつだ。グローバル化・ICT化が急速に進行する現代、受動的な態度は望ましくない。アクティブラーニングまたは「主体的・対話的な学び」は急ぎ全国の学校で施行される必要がある──。
たいへんけっこうな考え方である。思わず然り然りと言いたくなる。
だがこれ、すっごく底が浅い考え方なのだ。教育現場を見たこともなく知識もない、シロウトが抱く意見である。それが、この本を読むとよくわかる。
なにより、「主体的・対話的な学び」はまったく新しくない。これは学校教育はじまって以来の悲願と言っていいものであり、これまでも幾度となく提唱され、実行されてきたものである。「グローバル化」という言葉よりずっと古いのだ。
本書は、学校教育の歴史を振り返りつつ、「主体的・対話的で深い学び」がこれまでどう考えられ、どのように取り入れられてきたかを語っている。さらに、これらと昨今の「アクティブラーニング」「主体的・対話的な学び」の相違点はどこかを明確にしている。結果見えてくるのは、「アクティブラーニング」そして「主体的・対話的な学び」が、じつに場当たり的に、ほとんど批判的検討もなく、希望的観測をもとに無反省に取り入れられようとしているという事実だ。ひとことで言えば「雑」。何度おいおいと言いたくなったか。
本書は「批判の書」である。
この本の読者は誰もが、アクティブラーニングは数々の幻想に立脚していることを知るだろう。さらに、本書にあげられた批判に答えずして、安直にアクティブラーニングを導入することはできないことを知るだろう。
たとえば、こんな矛盾は容易に考えつく。
主体的・能動的に思考するためには、ある程度の知識が絶対に必要になる。では、その知識はどうやって授けるのか? 従来の教育スタイルが必要だってことじゃないのか? もしそうだとすれば、従来のスタイルに加える形で「主体的・対話的な学び」のための時間を作らねばならない。そんな時間、どこにあるんだ?
批判は、ほかにもある。
アクティブラーニングは学力格差を大きくする。教員に高いスキルが要求される。だが、教育現場にも、教師養成機関にも、その準備はまったくできていない。対応策はほとんど用意されていないのである。
また、当然のようにこんな疑問も起こる。
現在、学習指導要領には愛国心を持つように記されているが、「愛国心」に基づき、「主体的」に考えた結果、「現今の政治システムはクソだ」と結論した場合はどうするんだろう? 「主体的」に芽生えた意見を摘み取って、詰め込み式に矯正するんだろうか?
アクティブラーニングとは、砂の上に築き上げられた城だ。まっとうな感性を持っているなら、誰もがそう結論するだろう。
しかもこれは、人の一生を左右する重大な決定なのである。
以前、「ゆとり」世代のある人が、こんなことを言っていた。
「私、『ゆとり』って言葉、大嫌いなんです」
「なんで」
「私はべつに、ゆとり教育してくれって頼んだわけじゃありません。学校に入ったら、そうなっていたんです。選ぶこともできませんでした。なのに、どうしてゆとりゆとりって言われて、批判されなければならないんですか」
もっともだと思った。子どもには、教育スタイルを選択する権利はない。もし「ゆとり」が誤っているとすれば、それは俗に言う「ゆとり」世代のせいじゃない。それを決めたやつらのせいだ。「ゆとり」世代は、被害者なのである。
このままいけば、「アクティブラーニング」「主体的・対話的な学び」も同じ轍を踏むだろう。ゆとり教育はずいぶん評判が悪いようだが、「すべての子供たちに100点をとらせる」という考え方がもとになっている。実現できればけっこうな話だ。実現できないくせに見切り発車で実行したから批判が集まっている。
忘れて欲しくないことがある。
明治維新を成しとげた者は学校教育で育ったんじゃない。彼らは藩校や寺子屋などの教育機関で育ったのである。
これらは学校の祖先、先行形態のように言われているけれども、似て非なるものだ。大きなちがいのひとつとして、カリキュラムも進度も到達点も、独自のものが採用されていたことがあげられる。藩校の模範となるような幕府直営の教育機関が江戸に設立されていたけれども、これはあくまで「模範」だった。
また、藩とは県のようなものと考えるのも誤りだ。行政単位としての藩は、少ないときでも250以上、多いときには500以上あった。藩校とはその藩による運営だったのである。大げさにいえば、藩の数だけカリキュラムが存在したのだ。それらは似通っていたとしても、各藩の事情を反映したものだったことは間違いない(藩校がない藩もあった)。
明治以降、藩校や寺子屋は廃せられ、学校に置き換えられた。中央でカリキュラムが制定され、全国どこにいても、誰に習ってもほぼ同じことが学べるようになった。いいことだってむろんある。このシステムなら、学歴でだいたいの知識レベルがわかる。転校もしやすい。
だがよく考えてみよう。このシステムで育った連中が何をやったか。
負ける戦争をやったんだよ。さきの大戦を指導したのは全員、学校教育で育ったやつらだ。
誰か教えてくれよ。学校って、ほんとに寺子屋より優れてるのか?
欧州のいくつかの国では、中央でカリキュラムを制定するのではなく、学校または教師の裁量で教材も学習項目も選択されているところがある。このスタイルなら、カリキュラム決定の際、どうしたって生徒たちの個性やキャラクターを考えざるを得ないだろう。テクノロジーの進歩にも迅速に対応できるし、「主体的・対話的な学び」もたやすく達成できる。
もちろん、これが実現困難であることはよくわかっている。
なにしろ東日本大震災の復興庁を中央につくる国だ。復興庁を被災地において成功した前例があったのに、中央集権を選択したのである。教育だって同じだ。なんでも中央集権でやりたがるのさ。(利権とか既得権益があるからだと誰かが言った)
中央集権をやめれば、本書で提示されたアクティブラーニングの問題はたいがい解決するだろう。それを直視せず都合のいいお題目ばっかり並べれば、実現不可能性ばっかり出てくるのは当たり前だ。入れようとしているものと入れ物の形状がまったく違ってるんだ、入るはずないよ。一升瓶におでんを詰め込もうたってそりゃムリってもんだ。ヘタすりゃ割れてしまう。
最大の問題は、子どもは成長するってことだ。
望んでもいないのに「ゆとり」を押しつけられた不幸な世代をつくったのは、たしかにおまえらだ。それが誤りだとなれば、ただおまえらは言えばいい。
「ゆとり教育は間違いでした。よしましょう」
しかし、そのときすでに何百万人もの「ゆとり」世代がつくられてしまっている。彼らは何年にもわたる長い時間を、おまえらの「間違い」の下で過ごしたのだ。その時間は、決して取り戻すことができない。
アクティブラーニングもそうなるんじゃないか。
本書を読むと、その感が強くなる。
教育とは国家百年の計だという。それを肝に銘じて、ことに当たってもらいたい。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。