西田幾多郎をその嚆矢として、田辺元、さらには高山岩男、西谷啓治、高坂正顕、鈴木成高のいわゆる「京大四天王」をむかえて、日本最高の知性と称された京都学派の哲学者たち(鈴木成高は西洋史専攻)。戦前、彼らは圧倒的な影響力を持ち、大東亜戦争(太平洋戦争)の思想的な支えとなり、さらには国家へ殉じる精神を鼓舞するような言説までしたのです。
その戦争協力の責めを受け、戦後、公職追放に処された「京大四天王」(西谷啓治のみは復職)。彼らの思想的営為とは何だったのか、彼らはなにと格闘し、またなぜ戦争協力者となったのか、そして彼らの残したものはなにか、そこから私たちがなにを受け取るべきかを追究したのがこの本です。京都学派はどのように成立したのか、他の哲学者からどのような批判・肯定の目を向けられてきたかを含め、コンパクトに纏められた“京都学派興亡史”です。
西田幾多郎の『善の研究』が出版されたのが1911年、敗戦後1945年の公職追放までを京都学派の歴史とみれば30年余の歴史です。「自分の頭脳のみを頼りにして」書かれた『善の研究』を例外として他の哲学者は西欧の最先端の知に接し(田辺はフッサールに、三木はハイデガーにと現在でも超一級と評価されている哲学者に直接師事しました)、自らの哲学的営為を重ねていきました。
京都学派は、西田哲学を引き継いで独自の体系構築をおこなうか、あるいは西田哲学から刺激を得て西洋哲学史の見直しを図るかの道筋をたどることとなる。いずれにせよ、西田哲学を踏まえて世界最先端の哲学を目指すものである。
しかし「西洋哲学史の見直し」という志向は思わぬ事態をもたらしました。その流れの中で行われたのが悪名高い座談会「近代の超克」でした。この座談会の前章ともいえる「世界史的立場と日本」から「近代の超克」へ至る思想のドラマを描いた章はこの本の重要な箇所です。ぜひ熟読してください、そこからは今の私たちにとっても切実な問題と多くの教訓を引き出すことができるでしょう。
なぜ彼らは政府の帝国主義侵略のスローガンである「八紘一宇」の思想的支えとなっていったのでしょうか。さらになぜ彼らは大東亜戦争を肯定するようになったのでしょうか。ここには「日本の近代特有の蹉跌」があったように思えます。
世界水準の哲学を目指した京都学派の哲学者たち、彼らが追究したヘーゲル、カントだけでなくフッサール、ハイデッガー、さらにはデューイらのプラグマティズムの研究は確かに世界に伍するものでした。彼らの知的営為の到達点の1つとして高山岩男の『世界史の哲学』があります。著者によればこの著作はウォーラースティンの世界システム論に通じるものをはらんでいました。この著作は自国中心主義(=日本中心主義)のような狭隘なナショナリズムではありません。
ここにはまだ日本の植民地支配を正当化するような論理は見出せないし、周辺アジア諸国に対する無視や蔑視の感情も見られない。
しかしこのような「文化相対主義=文化多元主義」という視点は貫けることはありませんでした。高山のこの論述は四天王の1人、鈴木成高から激しい批判を受けることになったのです。西洋史を専攻している鈴木は「高山が言及する非ヨーロッパ社会の歴史は『文化類型学的』に過ぎないと断罪し、間接的にヨーロッパ中心主義的な世界観を擁護」したのです。
ここで重要なのは日本の近代の位置付けです。日本はアジアを脱して(脱亜論)ヨーロッパと同様な近代を歩んでいるという思いを彼らが持っていたということです。つまり日本は“ヨーロッパ近代の精神”の流れを受けている唯一のアジアの国であり、非近代(未近代?)であるアジアの他の諸国(中国が代表です)とは一線を画した国家(および文化)であるということでした。
つまり手本となり基準となるのはあくまでヨーロッパの近代精神でした。これが大きな落とし穴、彼らのナショナリズムへの変貌を生み出すことにもなったのです。
第一次世界大戦後のヨーロッパの荒廃を知るにつれ彼らの目標・目的は変貌していきました。ヨーロッパの姿は日本が目指した“ヨーロッパ近代”の行き詰まり(終焉)を明らかにしているように思えたのでしょう。彼らはヨーロッパの世界史的理念(使命)が終わったと認識したのです。
そしてそのヨーロッパが担っていた(現実化していた)世界史的理念(使命)をヨーロッパから引き継いでいくのが日本だと主張したのです。つまりアジアの中で唯一近代を実現した(と思っていた)日本がその世界史的使命としてアジアで帝国として出現したのです。
東洋は近代というものをもたない。ところが日本は近代をもった、そしてこの近代をもったということが、東亜に新しい秩序を喚び起す、それが非常に世界史的なことだ(「世界史的立場と日本」での鈴木成高の発言)
まるでナポレオンがヨーロッパ近代の世界精神を具現したように、日本の大陸侵攻は近代後(ポストモダン?)の世界精神を実現していると考えたのでしょう。まさしく「近代の超克」です。西欧史専攻の鈴木成高は次のようなスローガンを掲げました。
政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克である。
そして悪名高い座談会、文字通りの「近代の超克」がひらかれました。いまでもさまざまな論及がされる座談会ですが、名のみ勇ましいが内容は実りの少ないものでした。
座談会はもっぱら日本にとって近代とは何かの議論に終始し、最後は林房雄が問いかけた「真剣に近代というものを通ってきたか」という問題意識が座談会の参加者に共有されるかたちで終わる。言うなれば「近代の超克」は、見かけ上の勇ましさとは裏腹に、日本の後進性を確認されるかたちに終始したわけである。
この座談会で京都学派の主唱した「近代の超克」、「日本の世界史的使命」を批判したのは小林秀雄でした。小林はここで「本当の西洋の近代の思想」を日本は見極めることができていたのか、ただただ「皆んな誤解して、自分勝手な養分を食べ育つにいそがしかった」のだけではなかったのかと発言したのです。小林にとっては「近代の超克」もまた小林のいう“様々なる意匠”の1つのように見えたのではないでしょうか。
地道で健全な反省なり研究なりが漸く緒についた時に、政治的危機が到来した。そこでなんとか日本的原理というものを発見しなければならんということになってきた(同座談会の小林秀雄の発言)
小林の発言を読んで漱石のこんな言葉が思い浮かびました。
西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾(つぼみ)が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。(『現代日本の開化』より)
近代日本の知的達成と呼ばれた京都学派の哲学者たちが立っていたのは、漱石のいう外発的な近代であり、そこには内発的なものは少なかったのではないでしょうか。京都学派は日本の「後進性」をバネにひたすら世界の水準に追いつき追い越せと走った……、しかしそれは西洋近代を「誤解」していたのかもしれません。
さらにいえば「近代の超克」で京都学派が見出した「日本」とは、著者によれば「応仁の乱以後の文化」でしかなく、「禅仏教を中心にした非常に狭い範囲の文化を『日本文化』と強弁」しているように思えるものだったのです。
戦前の京都学派の歴史は一面では「政治危機の到来」で「知」が歪んでいったとも思えます。この弱さには日本の知・文化の取り入れ方やよって立つ根拠の問題のように思えます。真理の追究のはずが政治(状況的判断)の介入を避けることができなかったという。
外国人に対して乃公おれの国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。(『現代日本の開化』より)
輸入思想で現代の日本を計ることはもちろん「内発的」なものではありません。しかし漱石が苦情を呈したこのような日本中心主義もまた「内発的」なものではありません。ナショナリズムというよりもただの「夜郎自大な精神」でしかありません。ここには今に続く課題があります。
京都学派の思想的ドラマは敗戦で終わったわけではありません。戦後の京都学派の歩みについて、この本には三木清の再評価、京都学派の「後継者」としての上山春平の位置づけ、さらに柄谷行人と京都学派の関係など実に豊かな内容が綴られています。そして現代の日本でいかに京都学派の遺産を批判的に受け継ぐかも論じられています。日本の知の歴史を考える上で重要な1冊です。さらにいえば、知についての難解な解析だけでなく、最近猖獗している「ネトウヨ」への批判を含め、実にアクチュアルな内容の濃いものです。ぜひ熟読してください。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。