本書の巻末に、二本の秀逸な文章が掲載されている。いずれも、この国を代表する哲学者による寄稿である。ひとつは、中畑正志氏による「「解題」にかえて」。もうひとつは、熊野純彦氏による「思想史家としての神崎繁」。前者は、昨年惜しくも早世した稀代の碩学・神崎繁のこの遺著が、どのような経緯で成立し、刊行に至ったかが、明確にわかる。著者の哲学的思考のクセまでも解説してくれて、じつに本編の理解を助けてくれる。周到な「解題」である。
後者は、哲学の後輩からの臓腑にしみる追悼である。この文章を、熊野は、本書に補論として収録された著者の長編論文「アリストテレスの子供たち」のふたつの註についての、繊細な感想から始めている。その伝にならって、第一部「内乱の政治哲学」のひとつの註から、始めたい。
本書第一部では、古代ギリシアのポリスでの「内乱」がテーマになっている。「内乱」は不可避であり、ポリスにとって本来的なものでさえあった、とされる。そしてその終結には、「アムネスティー(=忘却、大赦)」以外の方法はなかった、という筋の、なかなかひねりのきいた議論が展開する。論の冒頭におかれるのは、かのカール・シュミットが、当初、匿名で発表したという文章である。
世界史上のあらゆる内戦は、相手方の完全な殲滅に終わるのでないかぎり、「アムネスティー」をもって終わっている。……
内乱は、21世紀の現在の人類にとっても、喫緊の課題といっていいだろう。その政治的現実を、おそらくは遙かに見据えながら、著者の議論はシュミットから古代ポリスへ、プラトンへと向かう。そして、プラトンからホッブズ――〈自然状態〉とは、〈万人の万人に対する戦争状態〉と言ったあのホッブズ――へと、架橋される。その蝶番にあたるところを引く(なお、ここで『法律』は、プラトンの著名な対話篇である)。
……『法律』には、その冒頭間もない箇所に、おそらく多くの人が読み飛ばしてきたと思われる、瞠目すべき言葉がある。
公的には、万人が万人に対して、また私的にも、各人は自分自身に対して、敵(polemios)である。〔『法律』626d7-8〕
この引用は、著者の哲学史家としての力量をあますところなく示している。なぜなら、この箇所を読むものには、おのずから、プラトンとホッブズが重なって見えてくるはずだから。まさに絶妙の引用である。
で、じつは、「瞠目すべき言葉がある」の箇所に註がついている。めくってみると長い註で、これまでにプラトンとホッブズの符合にかろうじて気づいたらしい論者が紹介される。その後である。こうある。
ちなみに、レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』(略)第Ⅷ章「新しい政治学」は、プラトンとホッブズの政治哲学を集中的に比較対照したものだが、そこではこの両者の符合については一言も述べられていない。行間を読むことで有名なこの論者は、行そのものを読むのは苦手のようである。
ぷっと、思わず吹き出す。この、間欠泉のように時折とびだすユーモアは、神崎繁という哲学者の大きな特徴であった。別に、ユーモアとか笑いを研究したわけではない。上の第一部の紹介でわかるように、厳密に細密にテキストを読み込んだ上で、なかなかにひねりのきいた論を展開する。そういう学風である。その根底に、読み込んだ上でテキストを客観視する、ユーモアの精神が横たわっていた、といえよう。
西洋古代哲学、西洋古典学を専攻としながら、近現代の思想も広く深く知悉している。むしろ、専攻は「哲学史全体」といいたくなる。それが著者の特質であって、まさに「碩学」という言葉がふさわしいが、そのあたりのいきさつもまた、巻末の中畑、熊野両氏の文章が、懇切である。
そしてこの稀代の哲学者は、最後の著作となる本書で、「哲学と政治の境界」に思考の切っ先を定めた。それはなぜなのだろうか、と思いつつ、第一部、第二部と読み進めばいい。第一部の鍵となっているのは、「アムネスティー」であり、「忘却」である。第二部では、「目的」と「良心」の関係が問われている。
「内乱」と言っても、具体的に、戦火をくぐって何かを論じようというのではない。プラトンやホッブズや、あるいはシュミットやハイデガーによりそいながら、この哲学者は最晩年、「戦い」を終わらせること(=サブタイトルの「忘却」)と、「戦い」を始めないこと(=同じく「制圧」)を見ようとしたのではなかったか。
テキストを周到に、繊細に読み解き、哲学の果実にいたる。哲学研究の伝統に根ざしながら、それをやすやすと超えても見せる。「これが哲学だ!」と言いたくなる一冊である。
レビュアー
1955年生まれ。フリーライター。
長年、野球取材を続ける一方で、哲学・思想の動向にも目配りを欠かさない。現在の関心事は、横浜DeNAラミレス監督、中村奨成(広陵高)。哲学では、ソクラテス以前の哲学者たちに注目。「日本歌謡論」にもとりくんでいる。