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2018.03.13

レビュー

明治天皇と徳川慶喜の酒盛り、二人で語った本音とは?──王政復古の真相!

明治31年3月に明治天皇・皇后が徳川慶喜と対面した時のエピソードがこの本の中で引用されています。

「伊藤、俺も今日でやっと今までの罪ほろぼしができたよ、慶喜の天下を取ってしまったが、今日は酒盛りをしたら、もうお互いに浮き世のことで仕方がないと言って帰った」(田中彰『明治維新の敗者と勝者』より)

伊藤博文に語ったこの天下をとる動きの大きな一歩となったのが王政復古の大号令でした。徳川政権打倒に真っ向からいどんだと考えられがちなこの"王政復古"に新たな光をあてたのがこの本です。

"王政復古"には立場・志向によってさまざまな思惑が込められていました。"王政復古"は単純に倒幕運動というわけではありませんでした。実は弱体化した幕府権力にとっても"王政復古"は戦略として望ましいことだったのです。

幕府は王政復古で否定されるべき対象とされたが、じつは幕末期を通じ、もっとも王政復古を推進した張本人であった。(略)幕府は江戸時代を通じて天皇を独占し、自らのコントロール下に置いていた。しかし、幕末期にその権力が弱体化すると、競争的な雄藩に対抗するため「尊王」を掲げ、ひたすら天皇・朝廷と一体化しようとした。

これが幕府の狙った"公武合体"の本質です。けれどこの公武合体は両刃の刃でした。それは「江戸城に君臨するだけで支配を維持してきた」という「権威の将軍」としてのありかたが危うくなってきたことを明らかにしてしまったのです。外国からの圧力による国難は、将軍を「国家の先頭に立つ君主」として押し出していきました。「慣習や伝統という重々しさを打ち破り、歴史の表舞台に登場」せざるを得なくさせたのです。

将軍は、政権を掌握するために(略)政治の先頭に立って諸問題を解決する能力と行動が求められた。

著者のいう「国事の将軍」への変質です。将軍は絶対的だった権威を喪失し、国事の解決者=実践政治家として見られるようになったのです。権威の喪失は将軍自体の中にあった支配の正当性を揺さぶることにつながります。そして将軍権力は正当性を保持するために天皇の権威が必要となったのです。この将軍像の変化を錦絵を使って読み解くこの本の部分には歴史の真相に迫るスリリングさも感じます。

孝明天皇はこのような動きをどう見ていたのでしょうか。興味深い記述があります。

王政復古を実現させるうえで、他でもない天皇自身が幕府への大政委任を肯定しているのは見逃せない。大政委任を支持する天皇は、王政復古をめざす廷臣と対立を深め、公武合体路線をとる、島津久光ら有力大名とつながりを強めていくのである。

国難に立ち向かうための"公武合体"は孝明天皇や有力な大名(松平春嶽、山内容堂ら)にも歓迎されるものでした。幕府側からこの朝廷への接近策を積極的に支持したのが「一会桑(一橋慶喜、会津藩、桑名藩)」でしたが、のちに一会桑は「将軍権威の再強化をめざす」江戸幕閣からは「朝廷サイドとみなされ、将軍に不利益をもたらすとの疑惑」をかけられます。また公家層の王政復古の思惑と孝明天皇の考えの間には少なからず溝があったように思います。

幕府と対抗した雄藩、例えば薩摩や長州なども、当初から倒幕を考えたり、幕府の存在を否定しようとしたのではなかった。彼らは国家の正当な構成員として、幕府の政治を正すという名目で朝廷に接近したのだが、それが天皇の権威を押し上げ王政復古の流れを加速させていった。

幕府(将軍)にとって王政復古は天皇の権威を利用しあくまで将軍権力を強化し有力大名を従わせようとしたものでした。幕府にとって「王政」とは幕府権力を正当化・強化・再編成するためのものでしかありません。しかし諸大名が直接、天皇と接触(参内)することで新たな秩序(権力空間)を生み出すことにもなったのです。なぜなら諸大名と将軍とが同じように天皇の権威秩序下にあるとみられるようになったからです。幕府を立て直すという勢力は次第に弱くなっていきました。「公武合体」が消え、「王政復古」だけが残ったのです。これは新たな運動と呼べるでしょう。

諸大名が天皇と「会う」ことによって、天皇に権力が集中していく、この権力の現象について著者はこう記しています。

権力者は、周囲がそう認識することによって、はじめて「権力者」たりえるということである。具体的に言えば、天皇はくりかえし将軍や大名に「会う」ことで、権力者としての地位を高め、固めていった。また、将軍や大名も、拝謁をくりかえすことで、臣下としての自覚を深めたにちがいない。

確かに権威として間違いなく君臨・支配していたころの将軍は、江戸城の奥に鎮座して、諸大名を引見することで秩序を成立させていました。

将軍が「会う」ということは、相手に論理的な理解を促すのではなく、マインドに働きかける非論理的、感覚的行為であった。

幕末の混乱によって将軍は諸大名に「会う」立場から、天皇に「会ってもらう」立場になったといえばわかりやすいかもしれません。

幕末期には、幕府に外国勢力を打ち払う力がなく、政権担当者として疑問符がついたとき、天皇が宮中で将軍・大名と「会う」ことで、権力化する趨勢を押しとどめるものは何もなかった。

「会う」ことと「権力の形成・維持には相関性がある」という指摘は権力論としても興味深いものです。将軍や幕府の許可を求めることなく諸大名と「会う」ことによって天皇は次第に「政治君主化」していったのです。もっとも公家には幕府の許可なく行われた大名参内が「宮中の秩序」を乱していると嫌悪しているものも多かったそうです。これらの公家は幕府を軽んずることが秩序を軽視することになると考えていたのです。宮中勢力にとっては「公武合体」「王政復古」も公家的な秩序を安定させるためのものでなければならなかったのです。しかしその余地はもはや失われていました。

「王政復古」はいってみれば同床異夢でした。1つは天皇の権威を借りて幕府への求心力を高めようという狙い。これは幕閣と一会桑の狙い。2番目は幕府政体の改革・再編成。これは雄藩の狙いでした。3番目は武家政権以前の政体へ戻そうという宮中勢力の狙い。そして4番目は天皇への求心力を利用して幕府に代表される旧体制を倒すという倒幕派の狙いでした。

その後の歴史はこれら4つの狙いが絡み合いながら3と4との流れが中心となります。将軍の地位の衰退につれて、それまで政治君主であった将軍に替わって天皇が政治君主として次第に前面に出てこざるを得ませんでした。しかし孝明天皇の考えはあくまで幕府への大政委任であり「完全な権力者としての天皇」ではありません。

そして孝明天皇の逝去、明治天皇の即位によって天皇の位置が大きく変わります。けれどこれもまたすぐに成立することはありません。武家の宮中への侵出(=参内)によって宮中秩序が乱され、既得権益への侵害と考えた宮中勢力の存在です。3の流れと4の流れの争いが起こってきました。

旧秩序に戻す「王政復古」と新秩序としての「王政復古」の相剋です。これは後者の勝利に終わりました。そして明治天皇は「政治君主」であった徳川将軍の後を追う「政治君主」としてあらわれることになりました。著者がいうように、実に「王政復古」はこの「政治君主化」した近代的な天皇を生み出す政治過程であったのです。この政治君主としての明治天皇のモデル(原型)は幕末の将軍徳川家茂にありました。明治天皇は政治的君主としての自覚を持っていたがゆえに先の伊藤への会話ができたのでしょう。「王政」は「古代への復古」ではなく、「近代的政治君主」を意味していたのです。

「王政復古」をめぐるさまざまなドラマを描ききったこの本は読む者に力強く迫ってきます。ページをめくるごとに新しい思いに気づかされ、また絵画、内裏図、肖像画を駆使した叙述は歴史的な事件が目の前で起きているような緊迫感をもたらしています。この本は日本史に限らずすべての歴史愛好家・ファンに読んで欲しい充実した1冊です。

レビュアー

野中幸広

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の2人です。

note⇒https://note.mu/nonakayukihiro

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