来年は明治維新150年、NHK大河ドラマの主人公が西郷隆盛となるなど、幕末・明治期の日本にスポットライトがあてられることになると思います。
幕末日本というと思い浮かぶ言葉が“尊皇攘夷”“佐幕(=公武合体)開国”というものでしょう。この本はこの通念に疑問を投げかけたものです。「血なまぐさい政争」が続けられた幕末はどのように捉え直されるべきなのか、著者はこう記しています。
尊王攘夷vs.公武合体の観点で理解してはならないのだ。尊皇や攘夷、また公武合体という点においては、すべての日本人は何ら変わりはない。にもかかわらず、通商条約を容認するのか破棄するのか、武備充実後まで攘夷実行を先送りするのかしないのか、これらの考え方の相違から政争が繰り広げられた時代だったのだ。
つまり「幕末=攘夷」であって、開国云々は本来的なものではありません。当時の日本人はすべて攘夷派であり、そこあったのは「大攘夷」と「小攘夷」の対立抗争だったのです
「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、無謀な攘夷を比定する考えだった。現行の通商条約を容認し、その利益によってじゅうぶんな武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張したのだ。
開国派の首魁と批判された井伊直弼ら公武合体派の人々はここに属していました。
「小攘夷」とは、勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張するものであった。
どちらも「攘夷」であることには変わりはありません。違いは現状認識、国力の認識の差です。「小攘夷」の背景にはアヘン戦争の影響もあり、日本(という認識はできあがりつつある過程だったのでしょうが)の植民地化・属国化の危機というものがありました。彼らから見れば開国派(実は「大攘夷」派)は諸外国に屈したように思えたのです。
つまり「大攘夷」と「小攘夷」の「対立が、全国的な内乱」を引き起こしたのです。あるいは攘夷の目的達成のために「開国」という手段・途を選ばなければならないと主張したものと、「開国」という手段をとっては国力の充実どころか「亡国(植民地化)」になると思ったものとの抗争といえるでしょう。
ではなぜ誰もが「攘夷」を絶対と思っていたのでしょうか。それを追究したがこの本の眼目のひとつです。
江戸時代の攘夷思想は日本版の「華夷思想(=中華思想)」にその淵源がありました。華夷思想(=中華思想)とは中国を文化的に一番優れたものと考え、周辺の地を遅れた地と考える思想です。
中国を構成する漢民族以外を夷狄(いてき)とみなし、その独自性を認めず、教化の対象と捉える思想といえる。(略)それを具体化する体制は、「冊封(さくほう)」と呼ばれている。
中国皇帝が周辺諸国の王侯に「中国の爵号を授け、君臣関係を結ぶことで」作られた国際秩序のことを冊封といいます。日本もかつてはその秩序の中に置かれていました。一方でその冊封体制を利用した人物も現れました。室町幕府3代将軍足利義満が明より日本国王に任じられたなどがそれにあたります。
しかしこのような冊封体制へ組み込まれることを是としないものが日本にはありました。著者によれば「日本の天皇制国家の樹立による、華夷体制からの逸脱志向が背後にあった」のです。
天皇制国家、これは天皇自身が政治を司る天皇親政のことであるが、その条件は、中国帝国により東アジア冊封体制からの独立であり、独自の冊封体制に基づく「東夷の小帝国」を形成しなければならなかった。
そして明の滅亡後、「夷狄である女真族によって清が建国」されると、江戸幕府の「将軍家はより一層中国冊封体制からの自立を意識し、日本を世界の中心に据えた東アジア的華夷思想にもとづく、日本型冊封体制の構築を試みること」になったのです。この将軍家による「東夷の小帝国」の形成では天皇との関係が問題になりますが、幕末までは圧倒的な武力を背景にして、「事実上は天皇を抑えて、軍事政権の頂点に君臨」していました。つまり「大政委任」という形式で国政担当の権利を朝廷から全権委任されているという形をとったのです。
この「東夷の小帝国」の理念を象徴するのが山鹿素行の『中朝事実』でしょう。儒学者・軍学者として著名な山鹿素行は、この著書で王朝の交代があり、異民族に支配されている清よりも日本は万世一系の天皇が支配している、日本こそが中朝(中華)であると主張しました。もっとも山鹿素行は幕府のイデオロギーである朱子学を批判したため赤穂藩へお預けとなりました。ちなみにこの配所・赤穂での弟子に赤穂浪士・大石内蔵助もいたそうです。
ともあれ「江戸時代とは徳川公儀体制の下で、東アジア華夷思想にもとづく『東夷の小帝国』を形成し、鎖国(実際には海禁)策を貫いていた時代」でした。「攘夷」志向は鎖国(海禁)策によって強められていきました。さらに幕末にはロシアの脅威があらわれ、攘夷意識は国防意識としても一層強められていったのです。
こうしてみれば「尊皇攘夷」「佐幕開国」というレッテルは無効だということがはっきりします。考えてみれば、「開国」に対するのは「鎖国」であり、そのまま「攘夷」に繋がるものではありません。
この本の後半は「大攘夷」「小攘夷」の抗争の果てに実行された「攘夷」の行動をドキュメント風に綴り、事態の変貌にどのように人々が対したのかが語られています。坂本龍馬に新しい光をあてたり、朝陽丸事件を通して長州藩の動きを追い、読みごたえのある部分になっています。
もうひとつ重要なことが記されています。攘夷意識の背景にあった「東アジア華夷思想」の行方です。明治維新によって「東アジア唯一の先進国家」となった日本は日清・日露戦争、さらに日韓併合によって「朝貢国」を得たのです。
幕末の攘夷は、維新後四十数年を経て成し遂げられたことになる。
東アジア唯一の帝国主義国家となって、列強の仲間入りを果たした日本のつぎなる野望は、清をはじめとする東アジア、さらには東南アジア諸国を朝貢国とすることにあった。つまり、「東夷の小帝国」から「東亜の大帝国」への脱却こそ、最終ゴールたり得たのである。しかし、その結果はご存じのとおりである。さきの未曾有の大戦も、つまりは、幕末の攘夷の呪縛によるものなのだ。
攘夷意識・攘夷の呪縛は私たちに無縁になったのでしょうか。自国中心主義、排外主義、ヘイトが猖獗(しょうけつ)していることを考えると、そうとはいいきれないように思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。