東京近郊の胃袋を担い続けてきた食の聖地、東京中央卸売市場・築地市場。ここ数年のあいだ政治と世論に翻弄され、移転問題に揺れ続けた彼の地は、遂にというべきか、いよいよというべきか2018年の10月に移転が予定されたのは記憶に新しいことだろう。それと同じく、2020年のオリンピック、国立競技場問題で大いに揺れた神宮外苑。明治神宮と対を成す都会の森も来年の年末には新国立競技場の完成を迎え、周辺の様子が騒がしくなっている。
現代の東京を生きる人々にとってまぎれもない聖地であり象徴である2つの土地。これに改めて向き合うきっかけとなった此度の騒ぎは、近代日本のこれまでの振り返りと、そしてこれからの街のあり方を考える良い契機になったのではなかろうか。そんな2つの聖地を成り立ちから読み解くのが本書、中沢新一による『アースダイバー 東京の聖地』だ。
アースダイバーシリーズの最新作として取り上げられた場所がこの2つの土地。いままでのアースダイバーが遙か昔からの土地の記憶をたぐり、歴史上の出来事や、土地の成り立ちと神話や伝説が絡まりあい生まれた関係を浮き彫りにしてきたのに対し、『東京の聖地』で取り上げられた築地と明治神宮の土地には、殆(ほとん)ど土地の記憶が存在しないという。したがって、本書を読むにあたり「聖地」という定義を明確にしておかないと、本書にて取り上げられている希有な存在である築地市場と、明治神宮の神聖性を掴(つか)めないだろう。
この「聖地」について、中沢新一氏は本書の序文で以下のように定義している。
(1)聖地のまわりには何かの結界のようなものが張り巡らされていて、外の世界からの影響が中に侵入してくるのを、厳格に制限している。そのために「聖地」の内部には、世の中を動かしているさまざまな原理とは根本的に異質な、およそ標準的でない(ノンスタンダード)な世界が作られることになる。
(2)聖地は自然との通路を成している。聖地に入った人は、おのずと自然との直接的接触を体験することになる。聖地の外の世界、特に都市では、自然との接触はさまざまな手段を通じて制限されており、複雑な媒介気候を介して出なければ、自然には直接触れ得ないように暮らしの全体が作られている、ところが聖地に入り込んだ人は普段は体験しない生々しい自然との接触を感じ取るのである。神道の神社や山岳仏教のお寺が、そういう体験をもたらす聖地の典型である。
(3)聖地にはかならず生きた人間が活動している。そこにいつも住んでいたり、時々訪問(巡礼)したりすることによって、(1)や(2)で示された聖地の条件が持続可能な状態に守られるのを手伝っている。聖地には行きた人間が、保護者や庭師としての活動を続けていることが必要で、それがないと、聖地はただの遺跡や文化遺産になってしまう。そうなってはもはや聖地としての意義は失われてしまう。
この序文を踏まえてページを手繰っていくと、いやはやなるほどと膝を打つ。築地や明治神宮だけでなく、世にあまたと存在する聖地たちはこれら3つの定義に当てはまるものばかりなので、読者に対してパーセプションチェンジというか何というか。世の中を見渡すうえでの新しい物差しをもたらしてくれるのだ。
2018年に移転することになった築地市場の開場は1935年。いまからおよそ83年前になる。江戸時代のあのあたりは埋め立てられる前であり、東京湾の一部であったので本書で語られているとおり、殆ど「土地の記憶」というものはない。そのため築地に魚河岸が開かれる前──江戸時代から関東大震災によって東京の街が壊滅するまでは魚河岸は日本橋にあって、江戸の文化はすなわち魚河岸文化を元に醸成されていった漁民の文化だという。
そんな現在の築地市場につながる江戸の漁民の歴史は遡ると本能寺の変にまで及ぶのだ。
明智光秀が織田信長を本能寺で討ち、家康が明智の追っ手から大阪から三河まで逃げ帰る際に海路の手配をした漁師の一族がいた。漁師たちのその働きに恩義を感じ、その後家康が江戸幕府を開いたときに大阪から呼び寄せ、石川島に近い島を居住地として与え、江戸城内の台所をまかなうことで漁業権を与えた。そして幕府の御用商人として、日本橋で小売りをはじめ、次第に拡大していったという。
この話は東京都の中央区立郷土天文館の展示にも解説があり、少し調べると出てくるのだが、さすがアースダイバーだ。本書では家康を手助けした漁師の一族をさらに深掘りしている。
家康の海路の手配をした漁師、見一孫右衛門はただの漁師ではなく、諜報活動に秀でた海賊衆だったのではないか?だとか、大阪城の御用商人の立場を活かして大阪冬の陣の際に、豊臣側の台所事情を探るスパイをしていた、というような興味をくすぐる内容が次から次へと出てくる。そして家康が江戸に幕府を開く前に見一の一族は江戸に上がり、一族が江戸に移るための下準備をしていたという。
このように、土地の記憶から紐解くのではなく、そこに聖地が築かれるまでに至る文化の成り立ちを丁寧にほぐしていくと、ここまでこじれてしまった移転問題も仕方ないものだと思えるくらいの紆余曲折があるのだ。
そしてもうひとつ東京の聖地として挙げられているものが明治神宮である。
渋谷や新宿などの大都会に挟まれた立地であるにも関わらず、原生林のような森が存在していることに、普段生活しているとなかなか気づかない。原宿駅から参道を通ると静謐な空気に満たされた整った砂利の道を歩くことになるから、森の中には入らないので道の両側に広がる木々が茂る部分にはあまり注意を払ないだろうし、実際の広さも感じづらいだろう。しかしあの森を構成する木々は、国民から寄進された10万本以上の樹木によって構成されている広大な森林なのだという。そうやって人々の信仰を背負う、人工的に生まれた新しい原生林が都会に存在しているということを知ると、日本人が持つ常磐なるものへの祈りを感じられるのではないだろうか。
極めて個人的な話になるが、本レビューを書いている私は現在築地で暮らしており、まさに移転問題に揺れるまちを日々感じながら暮らしている。市場の中はテレビでよく見かけるようにターレットトラックが所狭しと走り回っており、時々轢(ひ)かれそうになっている外国人観光客をよく見かけるが、市場の門から外に出て晴海通りを挟んだあたりにはたくさんの水産関係の業者や、お寿司屋さんなどに卸す玉子焼きを製造販売している業者が点在しており、市場とそれらのお店を繋ぐようにターレが走り回っている。
そんな築地のまちを思いつつ本書を読み解いていくと、確かに聖地としか言いようがない世界が息づいているのだ。そういった営みを横目に、あたらしいマンションがそこかしこで日々高さを増し、それと同じように廃業の張り紙を貼った業者のシャッターが増えていく様子は、聖地の結界が破られてしまったということなのか、などと思わずにはいられない。
そんな過渡期であるからこそ、本書にて語られていることはもの凄く重い。願わくば本書を読んだものとして、築地市場が移転するまでに、そして新しい国立競技場が完成する前に、本書を片手に消えゆく東京の聖地を訪れることを強くおすすめしたい。
レビュアー
静岡育ち、東京在住のプランナー1980年生まれ。電子書籍関連サービスのプロデュースや、オンラインメディアのプランニングとマネタイズで生計を立てる。マンガ好きが昂じ壁一面の本棚を作るものの、日々増え続けるコミックスによる収納限界の訪れは間近に迫っている。