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2017.11.11

レビュー

「天皇家は火葬か土葬か?」仏式から神式になった「2700年」の謎

葬儀にはその人、その国の文化や伝統があらわれます。この本は天皇家の葬儀にあらわれた文化や伝統を追究したものです。

すぐに気づかされるのは、私たちが伝統と思っていることの多くが明治になって作られたのではないかということです。たとえば葬法を考えてみます。今上陛下がこのようなご意向をしめしたと報道されました。

──天皇皇后両陛下から、御陵の簡素化という観点も含め、火葬によって行うことが望ましいというお気持ちを、かねてよりいただいていた。(平成25年11月の宮内庁「今後の御陵及び御喪儀のあり方についての天皇皇后両陛下のお気持ち」より)──

神式なのですから、土葬が本来の葬法だと考える人もいるかと思います。ところがそうではありません。初めて火葬にふされた持統天皇以来、天皇の葬法は火葬と土葬とが混在していました。なかには淳和天皇のように散骨されたものもあったそうです。ただし後光明天皇からは土葬となっていました。歴史をみてみれば確かに上皇となり、また法皇となった天皇がいたのですから仏式で行われたことがあったのも当然でしょう。(仏教では釈迦が火葬されたということから葬法は火葬でした)

さらに土葬も神式というよりも、むしろ儒教の影響によって行われていました。儒教では火葬は遺体に対する冒とくだと考えられていました。遺体は毀損させてはなりませんでした。もっとも庶民レベルで土葬が広まったのは燃料代が高かったからという説もあるようですが。

──孝明天皇の葬儀は崩御からほぼ一ヵ月も遅れて慶応三年(1867)一月二十七日の夜から翌日にかけて営まれた。(略)これが天皇の仏式の葬儀の最後となった。また、このときに墳丘型の山稜が復活し、明治天皇陵の先触れになったのだった。──

明治天皇の1代前の孝明天皇は仏式の葬儀でした。実は仏式の葬儀が完全になくなったのは明治天皇からだったのです。さらに加えて明治政府は葬法として火葬を禁じた火葬禁止令(明治6年)を公布します。火葬は仏教の葬法であり廃止すべきだ、という神道の主張を明治政府は認めたのです。これもまた仏教の排斥という運動(廃仏毀釈)のあらわれでもあったのでしょう。もっとも都市部の土地不足(!)、埋葬料の高騰(!)によって2年後の明治8年に火葬禁止令は廃止されました。

ところで、この孝明天皇の葬法で復活したものがあります。それは山稜の復活です。墳墓の形である山稜と呼ばれる「古墳のような墳丘」が復活されました。その背景にも日本というものを成立させようという意思がありました。

──幕末の尊皇攘夷運動のなかで万世一系の皇統をいただく日本の国体が強調されるようになると、歴代天皇陵の探索と修復が重要な課題として浮上し、なかでも神武天皇陵の治定が重要な課題になった。──
治定(じじょう):天皇陵の所在をさだめること。

これらのことが示しているのは神道と考えられているものの多くが幕末の尊皇攘夷運動そして明治になって(再)発見されたということです。つまり明治になりさまざまな伝承・伝統が「新しい古式」として、「モダン化されて再生」されたのです。

この志向の背景には欧米諸国で「宗教が重視されている」ということがありました。

──欧米に学んで国民国家をつくるには何か宗教的なものが必要だということは認識され、全国の神社の整理と祭式の統一が進められたほか、憲法制定にも大きな影響を与えることになる。──

明治政府は欧米列強に対抗する近代国家を作り上げるために神道を必要としたのです。それは明治天皇が危機的状況、国内の統一のために「国民統合の象徴」となっていったことと同義でもありました。

──明治天皇は、神社に親拝するときには平安時代の束帯、国会の開院などの近代国家の儀式のときには洋式の大礼服、陸海軍の閲兵には大元帥の軍装で臨んだ。また、軽装で農村にも工場にも出かけ、その姿を人々に見せた。──

いまだ統一された国家とはいえなかった日本を近代国家化させるために明治天皇は多面的な姿をみせたのです。衣冠束帯は宗教的な統合を、あたかも大礼服・軍装は近代国家を、そして軽装は近代国家を支える国民(国家)をあらわした姿のように思えます。

こうして成立したのが「天皇制」でした。誰もが口にする言葉となった天皇制ですが、改めて調べるとこうあります。

「天皇が君主として国家を統治する体制。明治以後から第二次大戦の終戦に至る明治憲法下での体制。広義には、象徴天皇制を含めていうこともある。[補説]大正末期に、日本共産党がはじめて用いたといわれる」(『デジタル大辞泉』より)

もともとは明治以降、太平洋戦争敗戦までの大日本帝国の体制のことで、その体制を「天皇制」という名で定義したのは共産党(一説ではコミンテルン)ともいわれています。

つまり「天皇制」は、かつては「人民の抑圧機構と見られて」批判の対象でした。この「天皇制」を変貌させていったのが戦後の昭和天皇のありかたでした。つまり、狭義の、専制体制であった「天皇制」というものを、天皇を象徴的存在とする広義の「天皇制」へと確立していったのが敗戦後の昭和天皇だったのです。

この本を読むと明治・大正・昭和20年までの天皇(制)が特異な存在だったように思えてきます。明治期の日本の危機的状況がもたらしたものだったのでしょう。その危機感から国家を統合させるために天皇に権威と権力集中させたのです。権力をもたらすために徴兵制がしかれ、強力な軍事力と警察権力を基にした中央集権・天皇専制を作り上げました。そして権威の裏づけ・強化というもので神道・神式というものを再発見・再構築したのです。「(狭義の)天皇制」を強化・正統化するために「伝統」が再発見され、さらに新たに作られていったのです。

天皇が歴史上で直接統治者であった時期はあまりありません。古代では貴族が、中世以降では武士が支配者でした。権威ではあったかもしれませんが権力は他の者が行使していました。それをみても明治以降の(狭義の)天皇制というものは異例であったというべきなのです。

きわめて刺激に満ちたこの本は現代の日本を考えるうえでも多くの知見にあふれています。じっくりと取り組んでください。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note⇒https://note.mu/nonakayukihiro

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