『孫子』は非戦の書だった!?
武田信玄の旗印「風林火山」の出典となっている孫武の著作『孫子』は日本でもよく知られていると思います。軍事戦略書というだけでなく、経営戦略書としても有用として注目され、多くの『孫子に学ぶ〇〇』といった本が出版されています。関連書をいれれば『論語』以上に読まれているかもしれません。
この本はさまざまな解釈書や孫子の利用本を読む前に手に取ってほしいものです。『孫子』13篇の内容がすっきり分かると思います。
『孫子』はイギリスの軍事史家、戦略思想家のリデル・ハートが絶賛し、クラウゼヴィッツの『戦争論』を越える戦略書としてヨーロッパでも広く読まれました。ハートがとりわけ着目したのは孫子が戦争にあたってなによりも情報等の重要性を指摘しているところでした。たとえば「彼を知り、己を知れば百戦殆(あやう)からず」という有名な1文も、いかなる時も相手の国力・実力、意図を情報によってつかむことが重要だといっているのです。
戦争の帰趨の判断、戦術として読まれている『孫子』ですが、こんな1節があります。
──最高の戦略は謀略によって勝つことだ。これに次ぐのは外交手段で屈服させること。その次は強大な軍事力で圧倒すること。最低の策は、敵の城塁を攻めること。──
さらには
──戦は国を無傷のままに保つのが上策であり、国に損失を与えるのは、勝ったとしてもよくない。(略)それ故、百戦百勝は最上とは言えない。戦わずして相手を屈服させることが最上なのである。──
戦争・戦略の天才と呼ばれる孫子ですが、決して戦争を肯定しているわけではありません。戦争をしないための行動がまず必要なのです。戦争はいたずらに国力を損耗し、民衆を疲弊させ、国土を荒廃させるのだと主張されています。ですから、戦争・戦闘の勝利法を説いたというより、非戦という戦略を説いているように読めるのです。
この本の冒頭に孫武が呉王・闔閭(こうりょ)にまみえたときの有名な挿話が描かれています。孫武の力量をはかろうとした闔閭は孫武に宮廷の女性たちを訓練してみろ、と命じます。隊長は王の寵姫2人でした。孫武の命令に従わず、はしゃいでばかりの宮女たち。伝達した命令を従わぬ責任として寵姫2人は処刑されます。それを見た宮女たちは一糸乱れぬ統制をみせます。悲嘆と不興を隠せない闔閭……。それでも孫武の力量を認めざるをえず将軍として迎えます。その功もあって呉王・闔閭は春秋の覇者となりました。
この挿話、兵の訓練、軍律というもののありかたをみせているのは確かですが、その一方で王(支配者・権力者)が自分の権力に溺れて、思いつきや、権力を濫用して行う行動がなにをもたらすのかを教えているように思えてなりません。
孫武は単なる戦争(戦略)請負人ではありません。彼の著作の背景には戦争はできる限り避けねばならないという思いがあるように感じられます。戦闘の勝利法も兵士の損耗をいかに少なくするかという意図がうかがえます。孫子から私たちが本当に学ばなければならないのは、戦闘の勝利法ではなく、戦争が不要になる世界を求め続けるということではないでしょうか。
卓越したマネジメントの書『韓非子』
後半の韓非子は戦国最後の思想家といわれています。統一帝国・秦の始皇帝が韓非子の著作に感銘し、その方法を統治に取り入れたといわれています。
韓非子は刑名家とも法家とも呼ばれている彼は孟子の性善説に反対した荀子の性悪説の影響を受けて、法による統治を主張しました。
もちろん「法治」といっても近代市民社会の法治とは異なります。儒家の根本思想の「徳知(=君主による仁政)」を否定して、法による厳罰化によって君主(=王)が統治するというものです。ですから一般意志が投影されたものではありません。マキャベリの『君主論』以上に王(=為政者)の統治技術を説いたものです。
とてもドライに統治法を説いた『韓非子』は実は多くの成語の出典となっています。いくつか例をあげると「矛盾」「守株」「逆鱗」「箕子の憂い」「郢書燕説」「唯々諾々」「宋襄の仁」「虎に翼」などがあります。この本ではどれもが短編小説を読むようなおもしろさで描かれています。
では、韓非子はどのような統治を王がすべきだと主張していたのでしょうか。
──法令を執行する時は、個人の好みで勝手に法を曲げたり変更してはならない。──
──君主が好き嫌いを露(あらわ)にすると、臣下はその心理に合わせようとするから、君主は惑わされる。大臣は君主の意向を推し量って下の者にいばりちらすから、君主の権勢を大臣が共有することになる。──
──何事も事件の裏には、得をする者と損をする者がいる。このことで誰が利益をこうむるか調べれば、おのずと真相ははっきりする。──
──成功のカギは時間と場所と仕事の内容である。時間と場所の選択を誤って、仕事をすれば、失敗するのはあたりまえだ。──
極めてわかりやすい統治術です。そのままでマネージメントに生かされる知恵ではないでしょうか。『孫子』以上に『韓非子』のほうが経営に生かされるように思います。
『韓非子』には人間の欠点への洞察が満ちています。君主の統治術を教えると同時に冷静な君主観も見せています。
──権勢は虎狼の心を養い、暴虐な行為に走らせる。──
このような「矛盾した存在である人間」への冷静な視線、それが『韓非子』の魅力です。そのエッセンスが詰まったこの本からはじめてみたらいかかでしょうか。おすすめです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。