俺たちは罪深き存在だ。子供たちに負の遺産を山ほど残して逝こうとしている。
負ばかりじゃないよ、正の遺産だってあるさ。誇らかにそう語る声が聞こえる。そりゃ、あるだろうさ。だが、正がどれだけあろうと、負があっていいことにはならない。
原子力発電所の問題は、負の遺産の最たるものだ。自分は運動家ではない。だからここで、反原発/脱原発を叫ぼうとは思わない。かといって再稼働を推進したいわけでもない。とにかくあれにオトシマエをつけずに子供たちに渡すのは忍びないと思っているだけだ。今のままじゃ、子供たちにとんでもなく大きな負債を残すことになる。大人たちよ、それでいいのか? アンタの子供を、生きづらい世の中に放り込みたいのか?
本作は現役キャリア官僚による告発小説である。大した安全管理もせず、廃棄物処理について考えもせず、ひたすら自己の利益あるいは省益のために原発再稼働に向かう有象無象が描かれている。
初版は2013年9月。福島の原発事故が2011年3月だから、メディアにおける原発の扱いがだいぶ沈静化してからの出版だ。にもかかわらず、本作および続編『東京ブラックアウト』はどちらもベストセラーになった。このテーマに対して、多くの人が興味を持続している証左だろう。
本書を読みながら、これはほんとにうまい手だな、とおおいに感心させられた。ここに書かれていることは、すべてフィクションとして構成されている。登場人物名や地名、役職名、団体名などがどんなに実在のものと似ていようと、これはホラ話なのだ。少なくとも、本書はそういう体裁で書かれている。
しかし、ほとんどの読者はそうは受け取っていない。ここに表現されているのは今現在進行しつつあるか、将来起こり得ることだと考えている。むろん、著者もそう受け取って欲しいと思っている。要するに、「ホラですよ」と言いながら本当のことを語っているのだ。実在の何かにあまりに酷似したネーミングと、こまかなディテールは、これがホラではないことを信じさせるに十分だ。そのくせ、いざってときは「ホラ話ですから」で逃げられる。いやー、高級官僚らしい手ですなあ。
ただし、誤解しないで欲しい。この小説が生まれた理由はひとつしかない。
作者は官僚だから、とくにお金に困ってるわけじゃないし、時間だって有り余ってるわけじゃない。にもかかわらずこの小説に向かったのは、現実があまりにひどいから、そのひどさを伝えずにはいられなかったからだ。出世にひびく心配は当然あるだろうし、陰口をたたかれる覚悟もあるだろう。それでも伝えずにはいられなかった。この小説は、官僚の正義感の産物である。たったひとりにせよ、わが国の中枢にはこういう人がいる。おおいに誇っていい。
ところで、おもしろい話があるんだ。私の父は地方在住の年金生活者である。年金生活者はお小遣いはあんまりないが時間だけはたくさんあるので、図書館をよく利用する。その彼が、本作の続編『東京ブラックアウト』を図書館で借りて読んだのだそうだ。
「福島と同じ事故が別の場所で起こる可能性も低くない。そのくせ、まっとうな避難計画すら立てられていない。事故がまったく教訓になってないんだ。ひどいもんだよ」
聞けば、彼は『東京ブラックアウト』は読んだものの、本作『原発ホワイトアウト』は読んでないという。図書館にないので読めないのだそうだ。
「『原発』って言葉がタイトルに入ってるからだよ」
彼はそう言って、読みたいが図書館にない本のリストを見せてくれた。「原発」とタイトルに入っている本が何冊かあった。
地方の住民が、原発に大きな興味を持つのは当然のことだ。遠からぬ場所に原発があって、再稼働をめぐって住民投票が行われたりしている。興味を持たない方がおかしいだろう。
本作『原発ホワイトアウト』は、ベストセラーになっている。図書館に数冊あってもおかしくない。しかも、ハードカバーと文庫、ふたつの異なる形態でリリースされている。それがどちらもないのは明らかに不自然だ。
おそらく、父の言うとおり、タイトルに「原発」という言葉が入っているから納入されなかったのだろう。
誰かからそういう指示があったのではない。本を図書館に納入する係の人が、誰かの意向を「忖度」したのだと思われる。同様に、『東京ブラックアウト』が納入された経緯も容易に想像できる。タイトルに「原発」がなかったので看過されたのだ。同じ著者の原発行政に対する告発小説なのに!
原発をめぐる言論はたしかに封殺されている。本作の読者なら、さもありなんと納得できることだろう。ここには、もっともっとえげつないことがたくさん描かれている。
きたねえなとか卑怯だなとかふざけんなとか、多くの人が感じたはずだ。それを官僚が悪いとか国が悪いとか言うのはたやすい。そのとおりだしね。だが、つまるところ俺たちが悪いんだと考えられなきゃ事態はまったく変わらない。
ハッキリ言おう。俺たち、バカにされてんだよ。ナメられてんだ。
いみじくも本書の著者が言っている。
「国の政治は、その国民の民度を越えられない。こうしたことが当たり前に行われていることを許している国民の民度は、その程度のものなのである」
民度を高めるとは、知識を増やすことだ。官僚が悪いとか国が悪いとか文句を言うんじゃなく、本書の著者と同程度の知識を持ち、それを当然のものとすることだ。それだけで世の中は大きく変わる。なにもⅠ種国家公務員になれと言ってるんじゃない。限られたジャンルについて知識を深め、自分の意見を持てと言ってるんだ。
ムリだって? 霞が関の官僚と同じ知識なんか持ちようがないって? 俺はそうは思わない。俺ならこの小説もしくはこの小説から得たことをマンガにする。そしてヒットを狙う。テレビドラマ化をもくろむ。わからないものは、わかる形にすればいいんだ。
不可能だと言うやつは多いだろう。誰を「忖度」してんだか知らねえけどさ、そういうこと言いたがるやつはいっぱいいるんだ。だが、考えてみてほしい。子供たちに残す負の遺産をできるかぎり少なくしようと考えることより、大切なことなんてあるのか? 俺たちの世代で生み出したあれに、オトシマエをつけて逝こうと思うより大事なことなんてあるのか? この国は住みやすい国であって欲しいと願うこと以上に、重要なことなんてあるのか?
この本は、そんな正義感から生まれた本である。われわれがすべきことは、これを可能なかぎり多くの人に知らせることなのだ。
(ちなみに「忖度」という言葉は本作に複数回出てくる。執筆時にはまったく一般的でなかった言葉だが、官僚にとってはめずらしい言葉じゃなかったらしい)
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。