私が、初めて海外1人旅をしたのは33歳でした。そのときは、成田までの行き方さえ知らず、換金することも、出入国カードなんてものがあることも知らないアホでした。
しかし、『舞台』の主人公である葉太(29歳)は、もっとアホです。
なにせ、ニューヨークに着いた初日にセントラルパークでバッグを盗まれ、スマホとホテルの鍵と1冊の本、ポケットの12ドル以外、全てを失ってしまったのですから。しかも、泥棒を追いかけもせず、警察にも届けず、日本領事館にも行かないのです。
運の悪いことに、スーツケースの鍵もバッグの中だったため着替えも無く、帰国までの日々を何ごともなかったかのように過ごす……。って、正直、この意味が、私にはサッパリわかりませんでした。
そして葉太は、「浮かれること、はしゃぐことを恥だと思っていた」自分が浮かれたがために、大失態を犯したと思っているのです。うーん、面倒くさいヤツ。
さらに「どうすれば『滑稽』じゃないのか」「どう言えば『間違いじゃない』のか」と、他人の目ばかり気にしてウダウダ言っている葉太にイラっとします。
なぜ、葉太がこんなヤツになってしまったのか? それは、亡くなったばかりの「しゃらくさい」父親への反発からでした。
葉太の父親は、テレビにも出るような有名小説家。いつもグレーのTシャツ、ブルージーンズ、白いスニーカーといった都会的なお洒落さん。そして、常に若い愛人がいて、家でもカッコいい男を演じているような人。そんな父親に葉太は、嫌悪すら感じてしまうのです。
確かに、こんな親だったら屈折していくよなぁ、とは思いつつも、だからってせっかく来たニューヨークで我慢大会しなくてもいいんじゃない? 誰かにお金を借りて楽しめばいいのにと、現実的な私は思ってしまうのですが。
ところが読み進めていくうち、葉太がなぜ、ニューヨークに来たのか?なぜ、こんなギリギリの状態でも踏みとどまらなければならなかったのか?が、だんだんわかってきます。
そして、これって私も似ているかも? だけど、何がどう似ているのかうまく言えない。何なんだ、この感覚。これは一体、どういうことだ ?
そう思っていたら、著者の西加奈子さんが「巻末特別対談」で、こんなことを話していました。
──葉太はハンサムだし裕福に育っていて、そういう子たちの悩みってスルーされがちだと思うんです。そうじゃない子たちの悩みのほうが切実に取られがちで、もちろんそれは尊重すべきだし癒すべきだけど、モテはしても愛されないとか、金持ちで顔も良くてなに悩んでんねんって言われて無視されがちな悩みがあることを無視したくない。とくに今世界情勢も大変な中で、『そんなんで悩むなんてあかん』といわれてしまうの辛いやろな、そういう悩みを書きたいなと──
「ありのまま」という言葉が力を持ち過ぎている風潮に対し、西さんが伝えたかったのは、「自分を作っててもええやん」ということだったのです。
私が葉太に共感したのは、つまりコレだったのです。
そして『舞台』という、一見、不釣り合いに思えるこの本のタイトル。これは、葉太がニューヨークのセントラルパークで読もうと日本から持って行った本のタイトルでもあるのですが、演じている自分は、つねに人生という舞台に立っているのだという、もう1つの意味があることに気付きました。
さらに、西さんは、こんなことも言っていました。
──『舞台』は男の子が主人公なので、男の人にはわかると言ってもらったりするんですけど、女の子は主人公の葉太に対して『なんやコイツ』という反応もあるんです──
はい、私もその1人でした!
この本を読み終えて1つ残念に思ったのは、私がニューヨークに行ったことがないということでした。色々とニューヨークの名所が出てくるのに、鮮やかな映像として浮かばないのです。ニューヨークに行ったことがある人であれば、もっとリアルに面白く読めるのではないでしょうか?
今まで、特に行きたいとも思わなかったニューヨーク。だけど、そろそろ行ってみようかな。そのときはきっと、飛行機の中で『舞台』を読み返してしまうのだろうな。それでもって、葉太と同じ道を歩いて、同じ店に入っちゃうんだろうな。そんな気にさせてくれる本でした。
レビュアー
「関口宏の東京フレンドパーク2」「王様のブランチ」など、バラエティ、ドキュメンタリー、情報番組など多数の番組に構成作家として携わり、ライターとしても雑誌等に執筆。今までにインタビューした有名人は1500人以上。また、京都造形芸術大学非常勤講師として「脚本制作」「ストーリー制作」を担当。東京都千代田区、豊島区、埼玉県志木市主催「小説講座」「コラム講座」講師。雑誌『公募ガイド』「超初心者向け小説講座」(通信教育)講師。現在も、九段生涯学習館で小説サークルを主宰。
公式HPはこちら⇒www.jplanet.jp