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2017.04.20

特集

葬られた日本史の闇──怨霊の日本が甦るミステリ「神の時空」シリーズ

正史の隠された歴史の闇を探る! 教科書では教えてくれない真実。

《第2回 「豆まきは変?」編、「禁足地ってどういう場所?」編》

日本の歴史や風習には数々の面白い謎がたくさん隠されています。 なぜお祭りのとき、神輿に水をまくのか? 豆まきで追い払っている鬼とは誰なのか? 神社などにある禁足地とはどんな場所なのか? 歴史ミステリーの名手高田崇史さんと、よく考えると不思議な風習や事柄を辿ります。


第1回 「なぜ神輿に水をまくのか?」はこちらから

豆まきは変?

鬼といいますと、やはり一番最初に思い出すのは「節分」の「豆まき」ですね。

その名の通り、「節分」というのは、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の季節を分ける日だったのですが、やがて年の変わり目の「立春」が、とくに重要視されるようになりました。今では、もう節分というと、2月のこの「立春」の日、というイメージがあります。実際に現在でも四柱推命などでは、この翌日から「新年」と数えています。

節分の行事は、平安時代の『蜻蛉日記』などでも書かれているように、宮中で執り行われていた「追儺(ついな)」や「鬼遣(おにやら)い」に端を発しています。ところがこの「追儺」という字なのですが、「儺(なん)を追う」、この「儺」という文字は本来「正しい歩き方」「正しい貌(かお)」「従順で素直」という意味を持っています。

つまり言葉の意味を正しく辿れば、正しい鬼たちを追い払うのが、節分の行事、ということになってしまいます。

春になると我々は、その従順な鬼たちに向かって豆を投げつけて自分の家から追い払っているわけです。しかもかれらは、たかだか子どもが投げつけてくる豆粒に、裸で、パンツ一枚で、寒空の中に追い出されてしまうほど、か弱い生き物なのです。それほど弱々しい生き物なら、もうちょっと季節が暖かくなるまで待ってあげて、それから追い出してもいいんじゃないでしょうか?

この節分に関してはもう一つ大きな疑問があります。

それは、豆まきの行事には必ずといって良いほど相撲取りの方々が参加されて、「鬼は外」と声を張り上げて、豆を撒くことです。

ところが相撲取りのルーツを探っていきますと、これは「野見宿禰」という人であり、菅原道真の祖先でもあるのですけれども、この人は、立派な「鬼」なのです。となると現在相撲取りの人たちは、自分たちの職業上の先祖を追い払っているということになってしまいます。これも非常に謎が深いですね。

↑こんな話題に興味がある人はぜひ「神の時空」シリーズをご一読ください!

禁足地ってどういう場所?

600年ほど前、鵺(ぬえ)、という怪鳥(けちょう)が大怨霊・菅原道真を祀っていた北野天満宮に現れて、大騒ぎになるという事件がありました。

その怪鳥は結局、見事に退治されましたが、当時の人々は「天神様の力が弱ってしまった」「天神様は病気になられたんだ」という話をしたそうです。

では、どうして天神様が病気になってしまったのか。

それはきっと、天神様が自分たちの災厄を、代わりに引き受け続けていてくださったからだ、と人々は考えたそうです。

それなら今度は、自分たちが天神様を看病することが必要なんじゃないか。そう考えてみんなで、盛大な祭を行った、と伝わっています。もちろん「祭り」というのは、取りも直さず「祀り」、「祈り」でもあります。このように、当時の人々は、怨霊ととても近しい仲にあったわけです。

「禁足地」という言葉があります。

ここには神様がずっと監禁されていて、我々は立ち入ることができない、そういうふうに言われています。ところが「禁足」という言葉を調べてみると、「立ち入り禁止」という意味はもともとはなかったのです。政治の世界でもよく使われていますように、「禁足」=「外出禁止」、ここから出てはいけないという意味だったんです。

「外出禁止である、神様の土地」 これが「禁足地」でした。

昔は怨霊たちと共に触れ合っていたのに、いつしか、そこに立ち入ることも許されず、それこそ、「行きは良い良い、帰りは恐い」という天神様の唄のようになって、遠ざけられてしまいました。

平安時代の日本の人口は、約500万人だったといわれています。その中で貴族、つまり「人」と呼ばれていた人たち──殿上人では五位以上の人は、150人ほどではなかったかと思います。残りの全員は「鬼」や「怨霊」だったわけです。しかも、「妖怪」でもあったかもしれません。

それなのに我々は、その自分たちの祖先からも遠ざけられてしまう……。これは一体どういうことなのでしょうか?

こうして色々な謎を追って行けば行くほど、歴史は暗記科目であるという考え方は間違っているのではないかと感じてしまいます。

歴史というのは「覚えるもの」ではなくて「考えるもの」ではないか。

もちろん年号を暗記することも、重要だと思います。しかし、もっと大切なことが忘れられているのではないでしょうか。それは、歴史書の行間に埋もれてしまった、昔の人たちの悲しみや慟哭に耳を傾けることであり、同時に、表立って書き残すことのできなかった彼らの真意に寄り添うこと。

鬼や天狗や河童や天邪鬼や土蜘蛛と呼ばれた人々の声に耳を澄ませてみること。それが、本当の意味で歴史を学ぶこということなのではないかと、思っています。

↑こんな話題に興味がある人はぜひ「神の時空」シリーズをご一読ください!

著者写真

高田崇史(たかだ・たかふみ)

昭和33年東京都生まれ。明治薬科大学卒。『QED百人一首の呪』(講談社ノベルス)で、第9回メフィスト賞を受賞しデビュー。著作に「QED」シリーズ、「カンナ」シリーズ、「鬼神伝」シリーズ(2011年アニメ映画化)、『軍神の血脈 楠木正成秘伝』などがある。

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