読む前から、大きな驚きがあった。当然だろう。「万能鑑定士Q」「探偵の探偵」「水鏡推理」などの現代ミステリー・シリーズで知られる松岡圭祐の最新刊が、歴史小説の大作だったのだ。しかも題材は義和団の乱と、それによる北京の籠城戦である。
清国末期に起きた義和団の乱は、キリスト教排斥運動に端を発した、民衆の反乱だ。しかし北京を包囲した義和団を、西太后が支持したことから、国家間の戦争へと発展。各国の公使館関係者・軍人・民間人が、北京在外公館区域である東交民巷に籠城し、援軍が来るまでの数十日を戦い抜いた。
義和団の台頭により、不穏な空気が漂う北京。新たな日本公使館付駐在武官として、柴五郎陸軍砲兵中佐が赴任した。腐れ縁の吉崎修成伍長や、上官の池澤幸徳軍曹と共に、公使館の雑用をしている櫻井隆一伍長は、語学が堪能であるため、なにかと柴に同行することになる。しかし、会津出身の柴は弱腰に見え、列強に加わったはずの日本は各国公使からミソッカス扱いされている。さらに公使たちの反応も鈍い。太原県で教会が義和団に襲撃されたとき、関本章介一等書記官の妻が殺され、次女の千代が命からがら難を逃れたという事件が、すでに起きている。長女の章子が、そのことを公使たちに訴えても、いなされるだけだ。
だが、鉄道が破壊され、陸の孤島になった北京に義和団が迫ったことで事態は急変。真の力を見せた柴が実質的な指揮官となり、籠城戦を繰り広げる。その姿に感化された櫻井も、積極的に戦いに身を投じる。複雑に交錯する各国の思惑と、文化の違い。仲のよかった杉山書記生を殺された、櫻井の慟哭。その一件から浮かび上がる、内通者の存在。やってきた海軍軍人との確執。漢人クリスチャンの救出作戦……。さまざまなドラマとエピソードを経て、櫻井は成長していく。
いったいなぜ作者は、いきなり歴史小説を執筆したのか。そんな疑問は、本を開いてすぐに吹き飛んだ。面白い。とにかく面白いのだ。現代ミステリーで発揮されたリーダビリティは、本書でも健在。櫻井を中心に活写される戦闘シーンも、たまらなくいい。吉崎や池澤、義勇兵となった日本人たちと共に、執拗に襲い来る義和団を撃退する。誰かを護るためという、熱き思いに支えられた櫻井の奮闘に、心が昂るのだ。
また、ミステリーの要素も見逃せない。杉山書記生を公使館区域の外に誘き出した、内通者は何者か。これも物語を引っ張る、重要なフックになっている。そこに各国の軍医が、次々と不審な死を迎えるという事件が発生。さらに謎が深まる。歴史小説ということで、躊躇する人がいるかもしれないが、松岡ミステリーのファンにも、自信を持ってお薦めできる内容になっているのだ。その他、櫻井と女性との淡いロマンスや、立場を超えて結ばれる兵士たちの絆など、読みどころが満載。おまけに終盤になると、ひと捻りした攻略方法と、迫真のアクションにより、興奮が止まらない。ページを開いたが最後、ノンストップで読み切ってしまうのである。
さて、本書のもっとも大切なテーマについて触れておこう。この物語で作者が表現したかったことは、日本人の誇りである。先の見えない籠城戦において柴五郎と日本兵や義勇兵が果たした役割は絶大なものがあり、当時から、世界的な賞賛を浴びた。イギリス公使のクロード・マクドナルドも感銘を受け、これが後の日英同盟締結に繋がる要因になったといわれるほどだ。本書のラスト近くで、クロードが柴にかける言葉は、こうした史実を意識してのものであろう。
とはいえ作者は、安直なナショナリズムを否定している。櫻井の子孫が登場する冒頭で、外国人が日本を礼賛する、浅薄なテレビ番組を批判しているではないか。柴五郎が、戊辰戦争の悲劇を体験した会津出身であることを巧みに使い、愛国心を利用する政治的意向に警鐘を鳴らしているではないか。
「生き延びろ。そして誇りを忘れるな。自分のなかにある真実を、戦場から持ち帰れ」
作中で、柴が櫻井に与えた箴言に込められた意味を、私たちも真摯に受け止めたいのである。
レビュアー
1963年、埼玉県生まれ。文芸評論家。時代小説、ミステリーなどエンターテインメント作品を中心に、書評、解説を多数手がけ、アンソロジストとしても活躍。読書量と蔵書量は驚異的。日本推理作家協会会員。