天正四年(1576年)「未曾有の城の工事が琵琶湖畔」で始められました。近世城郭の発祥となった安土城築城です。「外観五重、内部は地上六階、地下一階」のこの城は織田信長の権力と富の結晶であり、象徴でもありました。
天下統一を目前に、本能寺の変で非命に倒れた信長の最後の傑作となったのが安土城でした。この本は信長の築城に焦点をあて、小牧山城から安土城にいたるまで信長がどのように城を考えていたのかを追ったものです。
──築城にあたって非常に細かい指示を、直接信長が下していたことを示す記録までもが残されている。──
この城の設計の中に信長の革新性や野望をうかがうことができるのです。ですから、この本は築城を通して信長の革新性、思想さらに野望を浮き彫りにしたものです。
城は本来(もともと)軍事(防御)施設として築かれました。しかし、信長は城に新たな役割をもたせるようになっていきました。それは“支配権確立(=安定政権)を領民に知らしめる”というものです。戦闘(=不安定な政情)から治世(=安定した支配)へと城の持つ目的や意味が変わっていったのです。
加藤さんによればその嚆矢となったのが小牧山城の築城でした。居城だった清須城から移転した小牧山城にはその後の信長の築城政策の萌芽が見られるのです。かつて美濃攻略のための出城と考えられていた小牧山城でしたが、発掘調査によって新たな姿(目的)が浮かび上がってきたのです。
ひとつは城下町への「家臣の集住策」です。兵農分離が進み、常備軍化した家臣団は城下に集住させやすくなっていました。と同時に、それは軍団の機動力、迅速な軍事行動を可能にする新兵制も意味していました。
もうひとつ重要なのは“石垣”で囲まれた城が、「そそり立つように見せる」ことによって、信長に「明確に権力が集中している」ことを宣言し、周知させるためのものとして築かれたということです。政治空間としての城・城下町の出現です。
──新たな城下建設は、職能集団の把握と一元管理を兼ねたもので、旧来の寺社勢力が保有する諸権利の剥奪でもあった。簡単に言うなら規制緩和による自由な商取引によって、小牧山城下に自然に人が集まり、そこに生まれる経済効果をねらったものである。──
信長による“富国強兵策”の第一歩です。桶狭間の勝利が信長に新秩序への歩みをもたらしたといえるでしょう。
この城下町施策は岐阜城、宇佐山城等を経て安土城で結実することになります。もちろん本能寺で非命に倒れなければ、あるいは大坂城構想まで信長はその施策を拡充していったかもしれません。
ところで、加藤さんは宇佐山城の石垣に着目してこのようなことを記しています。
──宇佐山城の石垣は、単に防御効果を上げるという軍事的観点のみで築かれたわけではなかった。(略)石垣は琵琶湖山麓から眺めたときに見える場所のみの採用でしかない。ここに、石垣を見せるという政治的な意図が見て取れる。琵琶湖南端を通る主要街道からの視覚的効果を狙って構築したとしか思えない。信長は、二条新邸同様の石垣の城を都の入口に築き上げることで、その権力の強大さを誇示し、天下統一をめざす姿勢をアピールしたのである。──
城は明らかにその意味(役割)を変えたのです。
──信長の目的は、織田分国になった時点で、最新鋭の天守・瓦・石垣を持つ近世城郭を築き、新政権、新秩序が成立したことを、もっともわかりやすい形で表現していくことであった。領国統一の政治的象徴の構築こそが、統一政権誕生の布告だったのである。──
加藤さんは信長が「居城に強固な防備を求めていなかったとしか思えない」とまで記しています。
天守・瓦もまた「地域支配をねらった恒久城郭の建設」をあらわしています。天守はその統治のシンボルであり、「戦闘・戦略一辺倒だった城に、新たに政治的な目的が付加」されたのです。
──天下統一のシンボルとなる安土築城に向けて、試作とすべく城を築くことで、問題点を洗い出したのであろうか。信長は、試作を繰り返し、万全の準備を整えた末、遂に安土築城に動き出すのであった。──
信長は今までの構想力を集めて新城の建設の向かいます。それが「外観五重、内部は地上六階、地下一階」の安土城でした。この城の特徴は数多くあります。「城郭専用瓦という特別な目的を持って使用されたのは、安土城が初めてのケース」であり、また「全山総石垣で築かれた我が国初の城」でもありました。こうして安土城はその後の城郭建設の元ともいえるようになりました。
安土城の特徴は天守にもあります。安土城の天守は極めて居住性に優れていたといわれています。秀吉の大坂城も優れた居住性を持っていたといわれていますが、この両城は例外だったようです。というのは、その後作られた天守は決して居住性に優れたものとは思われないからです。
信長は天守内に住まうことで自身の権力を示しました。
──巨石で囲い込む閉ざされた空間を設けることで、信長個人が「隔絶された場所」に住む為政者へと変化することになった。信長は、この時点で軍事一辺倒であった「戦う城」から、政治的機能を持たせた「見せるための城」を志向したわけだ。──
そして信長は同時に自身の神格化・カリスマ化をはかったのです。
政治空間として現出した安土城には信長の統治意思がはっきりとあらわれていました。それが天皇との関係を窺わせる「御幸の御間」の存在です。この「御幸の御間」は天皇を迎えるために作られました。
──本丸御殿内に築かれた「御幸の御間」は、天守から見下ろす場所に位置する。これは、信長が天皇の上に位置することを暗に知らしめる目的があったとしか思えない。天皇の玉座さえも、己が居城へと作り上げることのできる信長の絶対的な権力を知らしめる目的もあったのであろう。信長が、天皇より上の存在であり、すべては信長の権力化にあることを示す装置だったと理解される。──
ここから加藤さんは信長の天下統治構想をこう結論づけます。
──信長が天皇を傀儡(かいらい)とし政権運営を考えていたのは確実である。天皇制を否定しようとか、天皇に取って代わろうとしたような形跡は見られない。だが、天皇を傀儡とすることで実質的な「日本国王」として君臨しようとしたことが窺える。──
安土城が教えてくれるのは信長政権の新たな権力・権威の基本構造です。これは従来の権威(朝廷)と権力(武家・将軍)構造の大変革を含むものだったのです。けれど残念なことにこれらすべての構想は信長の死によって潰(つい)えました。安土城の焼失によって信長の夢は文字どおり灰燼に帰することになったのです。
この本は信長の意思・夢・構想を築城という視点から追求した力作です。今日本では城郭ブームが起きています。すべての城郭ファン、歴史ファン、とりわけ信長・秀吉に関心のある人は必読です。
ところで、城郭の“美しさ”もこの安土城から始まりました。その城のもとで政治的安定が生まれ、楽市楽座による経済的繁栄、それに基づく華麗な文化が育ったように思うのです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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