『秀吉神話をくつがえす』で秀吉をマキャベリストでインテリジェンスの天才として描いた藤田さんが、その秀吉興隆のきっかけともなった本能寺の変の背景にせまった力作です。
最近では明智光秀の怨恨による単独説というのはあまりいわれなくなったように思います。朝廷関与説を始めさまざまな黒幕説が主張されるようになりました。
──単独か、それとも複数の協力者に支えられていたかについては、なお議論が分かれているが、光秀が背いた原因は、信長の進める改革への反発があったとみることでは共通している。──
藤田さんは将軍足利義昭を本能寺の変のキーパーソン(黒幕)としています。普通、信長に義昭が追放された時をもって室町幕府は滅亡し、織豊時代の幕開けと考えられています。義昭は“表舞台”からは去ったように見えますが、実際は影響力は衰えたりとはいえいまだに確固たるものとして存在していました。
──実際にはこの時点で幕府は滅亡しておらず、義昭も在国(京を離れること)の将軍として権威をもち、反信長の動きをその後も続けたのである。──
信長は義昭を追放したものの、後に義昭の帰洛を認めようとしたりと、将軍位を無視したわけではありません。信長は将軍位を廃することを考えてはいなかったのです。
──信長は義昭の子息を「大樹(将軍の唐名)若君」として庇護し、近い将来に、その子を将軍にするという意向を表明している。──
興味深い指摘があります。信長が義昭を奉じて室町幕府を再興した際の幕臣の構成です。
①和田惟政、細川藤孝などの上洛以前から義昭に仕えてきた者
②池田勝正などの上洛以前から畿内で国規模の支配を実現していた者
③三淵藤英などの足利義晴・義輝・義栄以来の幕臣だった者
──ここで重要なのは①②③の幕臣は、同時に信長の家臣として組織されていたことである。その代表的な存在が光秀といえよう。義昭の幕府と信長の権力は、光秀らの有力者を媒介にして一体となって機能していたのである。──
信長は義昭を“権威(信長の正統性を保障するもの)”として扱い、義昭のかろうじて保持していた“権力(=治政と戦闘力)”を奪っていきました。そしてそれを利用して当時の常識からは考えられなかった“常備軍”を作り上げようとします。当時の武士は「自分の本領を守ったり広げたりするために」戦っていたのであって、所領を離れた地での戦闘というものは考えられませんでした。しかし信長の天下布武のためには「遠隔地への長期派遣」が必要だったのです。
──信長の改革においては、遠隔地への長期派遣を喜んで受け入れ、自らの可能性を試す絶好の好機ととらえる家臣団を育て上げることが必要であった。そのため信長は新参者の光秀や農民出身の秀吉を抜擢するなどして、家臣団に実力主義の重要性を繰り返し示し、これを常識化しようとした。これこそが。信長権力を伊勢湾岸諸国を基盤とする地方政権から、全国政権へと飛躍させる原動力となったのである。──
信長はまずは義昭の権威を利用し、自らの正統性を主張しました。そして義昭追放後には朝廷の権威を利用したのです。
ここには日本の旧来からの権力と権威の二元構造がうかがえます。しかしそれも圧倒的な権力を掌握することで、他者からの権威=正統化は不必要になっていきました。権威と権力を自身に一元化しようとしたのが天下人としての信長でした。旧来の日本の支配・権威構造を改革しようとしたのです。
──重要なのは、信長が新しく作ろうとしている国家は、足利幕府体制や戦国大名の支配体制を継承するものでなく、それを根底から否定したものであったことである。──
これが本能寺の変を引きおこす種だったのです。旧来の日本の権威・権力を守ろうとする将軍義昭、将軍ばかりか朝廷の権威を認めない信長に疑問を抱いた光秀。
義昭は「鞆の浦とその近辺に御所を構え」毛利氏の援助のもと、激しく反信長の活動を続けます。義昭が働きかけたのは上杉謙信であり荒木村重であり、かつては幕臣であった光秀でした。
「安土行幸」、さらにと「三職推任」(朝廷より関白、太政大臣、将軍のいずれかへの就任要請)を通じて既成権威はすべて信長の下位に立ち、解体されることが明らかになりました。そして光秀が立ち上がったのです。
「本能寺の変」への藤田さんの謎解きはまだ続きます。信長の跡を継いだ秀吉はどのような政権だったのかということです。信長に反し旧体制に戻そうとした保守(守旧)派の光秀を倒した秀吉は信長の改革路線を継承したのでしょうか。
そうではありません。秀吉は信長と異なり自らが権威・権力のふたつを握ることはありませんでした。むしろ義昭に接近し、将軍の権威を利用しようとしたのです。その「猶子となって、十六代の足利将軍になろう」と画策したのです。
足利義昭は秀吉を猶子にすることを拒否します。そこで秀吉は近衛前久の猶子となる道を選び、関白となります。将軍という権威から朝廷という権威へ重心を移したといえるでしょう。
その後、秀吉の九州征伐に義昭は協力することとなります。「島津氏と友好関係にあった義昭に、講和の仲介を依頼」したのです。そのかいもあり、義昭は京へ戻ることができました。
──義昭の帰洛をもって、秀吉のもとにすべての領主が臣従し、後の朝鮮出兵へと続く軍事専制国家の基礎が築かれた。そして、この時期までに本能寺の変に深く関わった人々も、豊臣政権の協力者となっていた。──
秀吉の傘下に入った義昭は朝鮮出兵時に3500人の軍勢を率いて従軍までしています。
信長の「権威構造を根底から変える大変革」を秀吉は選びませんでした。保守あるいは新保守というような途を選んだのです。
──自らが従一位関白太政大臣に就任し、朝廷をはじめとする既成権威に手をふれようとはしなかった。彼(秀吉)は、それを徹底的に利用することで、短期間のうちに政権を握ったのである。──
ある部分では信長の政策を受け継いだ秀吉ではありましたが、権威(正統性)についてはまったく信長と異なる、旧態依然たる姿勢を貫いたのです。
──このような秀吉のやり方は、のちの江戸幕府の朝廷政策はもとより、幕府・維新の変革、さらには第二次大戦後の占領軍による民主化のありかたにも影響を与えたのではなかろうか。──
私たちは自らの力で「権威構造を根底から変える」ことはありませんでした。これが自立をさまたげ、自分の根拠(アイデンティティ)を他者にゆだねるような、あるいは強いものに巻かれろ的な心性に繋がっているのかもしれません。信長が倒そうとした旧体制とはどのようなものだったか、さらにはそれにいまだに私たちは呪縛されているのではないか、そんなことを考えた1冊でした。上質のミステリを読んでいるかのような心地を感じながら。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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