竹中直人監督により映画化された『自縄自縛の私』の、蛭田亜紗子さんの作品。開拓時代の北海道の過酷な歴史と、現代の若者の現実をつなぐ物語です。
東京や大阪などの大都市には労務者の街、いわゆる「ドヤ街」がありますが、不思議とそうしたドヤ街には、隣接するようにして色街がある。私は以前、取材のためにしばらくドヤ街で暮らしたことがあるのですが、方や肉体労働、方や春を売る街という、その地域が伝える歴史の強烈な「リアル」に圧倒される思いがしたものでした。
蛭田さんの『凛』は、そうした歴史に真っ向から挑みます。遠距離恋愛中の現代の女子大生、上原沙矢は、久しぶりに彼氏と旅行するために北海道に来た。しかし就職一年目の拓真は、休日も働く日々を送っていて、結局、いっしょに旅をする計画は流れてしまう。北の地でひとり鉄道に乗る沙矢は、網走である本に出会い、かつて北海道に送られ、北海道で生きたある女と男の人生を知ることになる。
舞台は大正三年。今でいうところのシングルマザーである八重子は、息子を知人に預け、自分は遊郭で働くために網走に送られる。
もともと女工だった八重子は、息子ために、息子が将来大学に行くこともできるという希望のために、甘い言葉をついに受け入れ、北の地に向かっていた。
その途中、彼女は青函連絡船の中で、ある青年と出会います。彼、白尾麟太郎は、東京の学生で、父親は医師。裕福な家庭で育った世間知らずの青年は、ふとしたきっかけで工事人夫の募集を見てその世界に足を踏み入れてしまい、北に送られていたのでした。
労働のために送られる女と男。女は春を売り、男は肉体労働に従事する。しかし「働く」といっても、その肌感覚は今とは違う。いや、当時の彼らにしても、事前に聞かされていた話より、現実ははるかに過酷でした。
女は、一度、遊郭に入ると外出することも許されず、自由を失う。衣装もなにもかも費用は自前であり、ただ一日を生きているだけで借金が積み重なっていく。
いわば前借り金によって自分自身を遊郭の主に売り飛ばしてしまった生活。自由を取り戻すためには、日々積み重なる借金以上に春を売り、自分を買い戻すしかない。
男も同じです。棒で殴られ、過酷な労働に従事させられる。私語は許されず自由な時間はない。耐えかねて逃亡しようとしても捕まれば私刑。命さえも奪われるという「タコ部屋」の日々。
そうした暮らしに身を落とした八重子の元に手紙が届きます。漢字が読めない彼女は、それを先輩に読んでもらうのですが、伝えられたのは息子の死でした。
いったいなんのために地獄に身を落としたのか。しかしもはや抜け出すことはできない。流されるままに、ここまで来てしまった彼女は変わる。娼妓として、なにがなんでも頂点に登ることを決意するのでした。一方、麟太郎も、タコ部屋での日々を生き抜くうちに、かつての面影を失っていきます。
女工と学生。スタート地点はまったく違っていた彼女と麟太郎の人生は、後に再び苦界で交錯し、重大な結果を残します。
世界は苦しみに満ち、人としての尊厳を捨てなければ生きていけない。であるならば、世界の暗闇で権力を握り、生きようとする人もいる。一方、どんなに小さな一歩でも、その世界を変えようと希望の火を灯す人もいる。
違う時代であっても同じ日本の若者たちだった。彼らの人生を知った沙矢は、自分自身の生き方もあらためて見つめ直すことになります。
しかし過去といっても本当に過去なのでしょうか。沙矢の彼氏は、休みもなく働いていた。現実社会でも、しばしばブラック企業、ブラックバイトの過酷な労働が報道され、その仕事ぶりは、ネットでは「奴隷」と表現されたりします。
現代でもシングルマザーの生活は厳しく、時に風俗産業が生活の手段となってしまう現実も、伝えられます。
大正時代からすいぶんと時間を経ましたが、結局、人間社会の現実は変わらないのか。しかしもし変わったものがあるのならば「なにが変えた」のか。
そうした著者の強い気持ちが、真っ向から伝わってくるように感じます。きっとあなたもお読みになれば心が熱くなるのではないでしょうか。
あとこれは、小さな余談ですが、沙矢たちのその後の姿に、なんだか、女と男、それも今の女と男のあり様が象徴されているようで、自分としてはその点もとても考えさせられました。
レビュアー
作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に〝中年の青春小説〟『オッサンフォー』、 現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。