又吉直樹さんが「太宰治に叱られたことがない。めちゃめちゃいい先輩みたいだ」と語っていて、さすがうまいことを言うなあとたいへんに感心した。
太宰治は優しい。絶対に声を荒げたりしない。こちらがどんなにダメなときも、そうだよな、仕方ないよな、と認めてくれるのだ。そんな存在はそうそうないよ。
とはいえ、太宰は叱らなかったのではない。叱れなかったのだ。
彼ぐらいひどい人間はそうはいない。その人となりを知れば、誰だってこの人には他人を責める資格なんかないと思うことだろう。
彼は戦前、重罪とされた共産党の細胞活動をやっていた。れっきとした犯罪者だったのだ。さらに、情死を企て、女は死んじまって自分だけ生き残った。これも何らかの罪になったはずだ。情死から生還した後は薬物中毒の治療のために精神病院に入院している。ジャンキーだったのだ。2人目の奥さんは不義は働きませんと誓ってもらったのだが、その誓いもどこへやら、あっちこっちに女をつくってその1人とは子までなしている。借金も山ほどあったらしいし、酒も毎日浴びるほど呑んでいた。悪所にもたびたび出入りしていたし、大恩ある人に嘘もついている。
しかも、この人は徴兵も文士徴用もされていないのである。あの時代に戦地に行かない/行けないのは、「男としてダメ」と国家に認定されたということだ(自分もダメ認定される立場なのでよくわかる)。
師である井伏鱒二は文士徴用されているから、年齢がネックになったのではない。本当にダメだったか、ダメアピールしたかのどちらかだ。どっちにしてもヘタレだった。
最後はご存じのとおり心中自殺だが、これは子をなした女とは別の愛人である。
彼を評して「サイテー!」という人がいても、私はその人を責めない。だって、本当にサイテーなんだもん。書いてて気持ち悪くなってくるぐらいさ。
だが、小説家としての評価はまったく別だ。
彼こそ真の天才だったと思っている。
『ザ・クレーター』のレビューでも述べたが、天才とは単純に才能ある人をさすのではない。才能にひきずられ、表現することなしには呼吸することもままならない人、生きることができない人だ。太宰治は、間違いなくそのひとりだった。例証はいくらもあるが、万言を尽くすよりも、本書1冊とおして読めば、了解されることだろう。
前置きが長くなった。私は太宰がサイテーだと言いたいわけでも、天才だと褒め称えたいわけでもない。作品と作家は別であり、それは分けて考えるべきだと主張したいのである。これは私ひとりの了見じゃない。日本という国が採用している考え方なんだよ。
『走れメロス』という作品がある。
中高の国語の教科書にも採用されているから、読んだことがある人も多いだろう。
この作品の作者がひどい人であるのは、上で述べたとおりだ。間違っても若い人にはマネしてほしくない。にもかかわらず教科書に掲載されているのは、作者の人格はどうあれ、作品が素晴らしいからだろう。
この国は、「作者と作品を分けて考える」「両者は別のものであり、一緒くたにしない」という考え方を、国家がみずから実践している国なのである。そうでなければ、サイテーの人間が書いた『走れメロス』を教科書に載せようなんて話になるはずがない。
昨今、芸能人・著名人のドラッグ渦によって、過去のドラマ作品の再放映をしないとか、過去の作品の販売をしないとかという話をよく聞く。これからもたぶん、あるだろう。
そういう話を聞くたび思うんだ。
馬鹿じゃねえかって。
いいですか、この国は、作家と作品は別のものであると、国家みずからが主張している国なんですよ。作家がジャンキーの犯罪者であっても、作品が素晴らしければ教科書に掲載して青少年の育成に役立てるんです。それがこの国なんですよ。
そういう国の、たかだか一企業が、なぜ作者と作品を一緒くたにするのですか? 作者がタイホされたら過去作品を販売しません、放映しませんってそういうことですよ。
もっとハッキリ言ってやろうか。頭悪すぎなんだよ。
百歩ゆずって、やってることが正しい行いだと認めることにしよう。一理あると考えてみよう。罪を犯したなら罪相応の報いを受けなきゃならぬ。過去作品を販売停止処分にするのは、その一環である。つまり、作者と作品を同一視する考え方ですね。
だとすれば、その思想を徹底しなければいけない。まず、ビートルズ売るのをやめなきゃならぬ。大麻持ってて成田で逮捕されたポール・マッカートニーのいるバンドだぞ。そんなもん、さらしちゃいかんだろ。こないだノーベル賞もらったボブ・ディランもよくない。彼に逮捕歴はないが、麻薬礼賛の歌を歌ってる(ex.「雨の日の女」)。これ売っちゃまずいだろ。テレビ報道もよくないねえ。
同じ理由で、ストーンズもジミヘンもマイルス・デイヴィスも、みんな販売できない。まあ洋楽ロックはたいがいダメだと思ってもらった方がいいだろう。
そこまでやるというんなら、言い分を認めよう。スジが通っててすごいと褒め称えよう。だってこれ、実際にやるとしたらすごいコストかかるぜ? しかも、行き着く先は販売停止だ。絶対にトクにならないビジネスである。それをあえてやるなんてすごいよ。世界にも誇るべき行動だ。
それが成されない限りは、中途半端、支離滅裂、ノータリン(!)と断じさせてもらう。
じつは最近、知人がある事件の容疑者となった。
その人と私とは、数年前にある仕事で一緒になって、いっしょに徹夜をしたことがある。ただそれだけの仲で、友達と言える間柄ではない。知人、という呼称がもっとも適当だろう。
それでも、彼の力になりたいと思った。彼がどんなにあしざまにののしられようと、自分は彼の味方であり続けたい。そう思った。
自分は冷酷な方だと思っている。義理人情には薄い方だと思っている。それでも、知人が窮地に立たされていることを知ったとき、そんな思いを抱いたのだ。これはまさに普遍の感情だと実感した。
ASKAさんは最近、自身のレーベルから復帰作をリリースした。早い話が自主制作である。(自主制作のほうが販売したときの音楽家の取り分がずっと多くなるから、ASKAさん本人がこの形態を望んだ可能性もある)
これだけは言える。この復帰劇には、かつて彼の栄光に浴した者は、いっさい関わっていないのだ。(すくなくとも筆者が知り得るかぎりではそうだ)
罪人を石もて追うのは誰でもできる。むしろ難しいのは、窮地に立たされた者を保護し、作品を発表する機会を与えてやること、その道筋をつけてやることだ。それこそが勇気ある行動であり、正しい道であるだろう。
むろん、罪は罪だ。罪人は罪をつぐなわねばならない。だが、それは司法がやるべきことであって、それ以外の者が関わるべきことではない。世論の尻馬に乗って愚鈍の仲間入りなんてもっとも恥ずべきことだよ。ため息が出るぜ。
本書は、当代一流と呼ばれる女性作家たちが、太宰治の作品を1作品ずつ選択し、1冊にまとめたアンソロジーである。中には、太宰が自己の半生を赤裸々に綴った私小説ふうの作品もある。これを読めば、誰もが彼のサイテーっぷりを理解するだろう。同時に知るはずだ、彼の小説は本当に素晴らしいってことを。作家と作品は、決して一緒にすることはできないってことを。
このシリーズはほかに、『男性作家が選ぶ太宰治』と『30代作家が選ぶ太宰治』、それぞれが出版されている。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。