この本は介護施設で人を看取ることができるようになった今、その場所で人がどのように死を受け止め、死を迎えたのかを追い、それぞれの死を考えたものです。と同時に、彼ら彼女らを看取った介護士が直面した出来事を綴ったドキュメントです。
──病院で死ぬということは、懸命な治療の結果として亡くなるということ。自宅で死ぬということは、住み慣れたわが家で家族に囲まれ、家族の一員として亡くなるということ。それでは、介護施設で死ぬとはどういうことか。──
高口さんはその問いに対してこう答えています。
──病院で死ぬということは、病名で死ぬということです。施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの“私”の名前で見送られるということです。そこで尊重されるのは、父や母という家族の中での立場だけでなく、今、あるがままの“私”という立場です。──
誤解をおそれずにいえば施設では、患者という一般的・抽象的な存在ではなく、顔のある個人が他者との関係の中で生き、死ぬということなのだと思います。施設は「生活支援の場」です。施設ではその人らしい生活を最後まで送らせようとします。「生活支援の場で人の最期を見届ける」ということです。重要視されるのは「個人の尊厳・尊重」ということです。これはQOL(生活の質)を守ることにつながります。そのために介護施設では3つの基本方針をあげています。
1.入居者を寝たきりにしない・させないこと。
2.入居者が培ってきたこれまでの生活習慣を大切にすること。
3.その人の持てる力を活かしていくこと。
──それは「寝たまま食べない」「寝たまま排泄しない」「寝たまま入浴しない」ということです。──
長期入院の経験がある人でしたら、起きること、歩行することがどれだけ回復に役立つかを実感したことがあると思います。ここでは「どんな動作ができないのか」を知り、それを介助することが肝心になります。
入居者には病院よりはるかに個人というものに寄り添ってくれていると思える施設です。ですが、実際にターミナルステージ(終末期)に入った時、入居者やその家族はどのようなことに直面するのでしょうか。
ターミナルステージにさしかかったときには、高口さんたちは「ターミナルケアの方針」を家族と確認しあいます。その際、大事なポイントは3つあります。
1.口から物が食べられなくなってきたときに、チューブを入れるかどうか。
2.状態が急変したときに、救急車を呼ぶかどうか。
3.施設でターミナルケアを行う場合、ときには死後発見になってしまうことがあるかもしれないということ。
──「食べ方」はそのまま「生き方」につながります。つまり、チューブを入れるか入れないかは、その人の人生に残された時間をどう生きるかに関わる選択です。これは親の生き方を子どもが決める、きわめて重要な場面と言えます。(略)残念ながらこの段階にきたらお年寄り本人が判断することは難しいケースがほとんどです。──
大事なことは「子どもが考え抜いた末に決めたかどうか」なのです。判断ができなくなった親に変わって決断すること、それはターミナルステージではさまざまなところで直面することになります。
2の状況も同様です。
──最近は無駄な延命治療はせず、人間としての尊厳を保ちながら亡くなりたいという考え方の人が増え(略)「最期は何もしなくていい」という声をよく聞くようになりました。──
けれどいくら本人がこのような意思を示していても、苦しむ本人を目の前にしたときはそう思い切ることはなかなか難しいと思います。
──「少しでも楽になるのなら、できることはしたいけれど……」と家族の心は揺れます。それは揺れて当然なのです。──
平静なときには病院の延命治療や措置を見て苛酷に思え、本人も家族も「最期は何もしなくていい」と決めていても苦しむ本人を目の前にするとそのようにできるものではありません。家族の感情に翻弄されてしまう施設の職員のようすがこの本に描かれています。いくら本人の意思とはいっても本人が元気なときの言葉がほとんどです。
では何をすべきなのでしょう。
──元気なときの本人の言葉がすべて絶対ではなく、そのときの自分の意思を自分の言葉で伝えきれないほど弱り果ててしまった場合は、家族がその都度、それまでの本人の気持ちを大切にして、自分たちが思う正直な気持ちで対応していけばいいと思います。──
死を考えることと、死に直面したときの違いです。死は確かに“個”として本人だけに訪れるものですが、“死ぬ”ということは“関係”として“関係の喪失”としてあらわれてきます。ですから残された者も“死の当事者”となります。まして本人の意思が不明な場合、最期に対する意思は、本人と関係を持ち、その“関係の喪失”に直面している者たちの意思であると考えていいのではないでしょうか。
──私たちはどんなに疑問や反省の残るターミナルケアであったとしても、家族には「これで良かった。大丈夫です」とあえて言葉にしています。対応として、仕事として反省するのは、私たちの問題です。家族に対しては、「良かった」と言い切ること、それが家族以外の第三者の務めだと思っています。──
この強い意思は高口さんが死をあくまで関係の中で考えていることを証しているように思えます。
介護の実際の大変さ、看取る家族たちの心のありようを含め、この本は“死”というものを見つめ直すためにきっと役に立つと思います。
ところで、終活ビジネスも2兆円に近いところまで伸び、さらには最近では死後啓発というものにも次第に関心が集まっています。死後啓発とは、自己啓発から転じて、死後の世界について思いを凝らし、死後の世界のイメージを提供するというものです。これもまた終活ビジネスを大きくする一助になっています。もっともこのようなビジネスには功罪なかばするものがあるように思います。
もともと終活には元気なうちに身の回りを整理し、残されたものに負担をかけないといったことや、人生の終わりを少しでもよりよいものとするためにという思いが込められています。もしそう思われるなら、なによりもまずこの本を読んでほしいと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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