かたや1960年代に麻雀の代打ちになり20年間無敗の雀士、“雀鬼”の異名を持ち“雀鬼流”を唱導する桜井章一さん。かたや株式会社ローヤル(現イエローハット)の創業者で“凡事徹底”と“掃除道”を実践する実業家鍵山秀三郎さん。2人が自身の体験を踏まえて縦横に語った(交互に綴った)エッセイがこの本です。
いま、社会には道徳的な導きもなくて、社会自体が非常識なわけですから、そこから生まれる常識なんていうのは、まず疑ってかかったほうがいいと思います。(桜井さん)
“常識”と呼ばれているものが私たちを縛りつけている。
ある組織の体制や権力が、その組織の繁栄や自分たちの保身のためだけにつくりだした「常識」なんていうのは、糞食らえです。そういう常識というのは、差別や不平等や、苦悩を生むものです。つまり、落ちこぼれを生むのです。たいへん怖いものです。過去でいえば軍国主義があります。国のために死になさい、というのが常識だったわけです。あれは、あのときの権力がつくりあげた常識です。(桜井さん)
そのような疑うべき“常識”が蔓延しています。その正体を見極めなければなりません。
上から強制してくるような常識は、やはり組織や自分たちの保身や利益のためにつくられたものが多いわけで、権力者の都合なんだということに、われわれはもっと気づかなければいけません。そういう常識は、ウソだったりごまかしだったり、見せかけや偽善だったりします。そういう常識に抵抗したり反抗したりすると、いわゆる「非常識人」になってしまいます。だから僕らは、非常識人を責めるんじゃなくて、まず常識のほうを疑うべきだと思います。常識の方向性がウソくさいから、非常識人が生まれるんです。(桜井さん)
疑わしいのは“常識”だけではありません。
「自分だけ」という考えに、最近では「いまだけ」という刹那的な意識も強くなってきたようです。過去も未来もなくて、いまだけという、恐ろしい心です。そういう弊害なのか、誰よりもサラリーマンがいちばん荒れてるんじゃないでしょうか。心が砕かれている。私の会社の店のお客さんで、つまらないことで難癖をつけて、いつまでも譲らないのは、大企業の社員の人に多いようです。(鍵山さん)
心を砕かせているのはなんでしょうか。
──会社にどれだけ利益をもたらしたかという数字だけで評価する。それで人間がよくなるわけがありません。(略)おカネさえ貯めればいい。あるいは地位を固めればいいというので、手段や方法を問わない。そこに日本中が悪化してる大きな原因があるのでしょう。(鍵山さん)
そして苦しくなった心は“癒やし”を求めます。けれどそれは救いになっているのでしょうか。
心にゆとりのある人は、癒やしなんか求めません。必要がないからです。では、ゆとりはどういうところから生まれてくるかというと、やはり人に親切にするということでゆとりが生まれるんです。それが今の人は、人に親切にするということがないから、ゆとりがない。だから癒しを求めると。こういう悪循環なんです。(略)
いまは将来に楽しみがないし、人に対して親切にもできないから、それはもう、心のなかはガサガサになってしまっています。だから癒やしという潤いを外に求めるということです。癒やしを求めるというのは、卑しいことであり、自分が未熟であるということを証明しているようなものです。(鍵山さん)
ゆとりをなくさせているのが“世間の常識”というものです。この“常識”とは既成観念であり空気であり雰囲気というものです。私たちを知らないうちに縛りつけているものです。それどころか、自分たちを不幸に、あるいは排他的にさせているものでもあります。2人がともに語っていることはこのような“常識”への懐疑であり、その欺瞞にとらわれてはならないということです。
ではそこからどのように抜け出せばいいのでしょうか。
桜井さんは「感性」を大事にすること、そしてそこから生まれる「瞬間的な決断力」が重要だと語っています。
感性が研ぎ澄まされると、人間が失ってしまって、わからなくなったことが瞬間的にわかるようになってきます。ものごとを瞬間的に見る目ができてくるんです。瞬間的な決断力も出てきます。そして、そういう感性を豊かにさせていくと、意志というものが強くなってきます。(略)無関心だったり、心が冷たかったり、あるいは打算があったりするところには、瞬間力は生まれてきません。(桜井さん)
感性によってウソくさい“常識”を見抜き、とらわれない自己意志を確立すること、その重要性がどんどん増していっているように思います。
2人のエッセイを読んでいるとふとエーリッヒ・フロム(『自由からの逃走』『正気の社会』等の著書で知られている思想家)の著書『生きているということ』を思い出しました。この本でフロムは人間の2つのありよう(=存在様式)を考察しています。ひとつは“ある”様式であり、もうひとつは“持つ”様式です。それぞれの特徴をこう記しています。
「“ある”様式には、その前提条件として、独立、自由、批判的理性の存在がある。その基本的特徴は能動的であるということ(略)自分の人間的な力を生産的に使用するという、内面的能動性の意味である」
「“持つ”存在様式の性質は、私有財産の性質に由来している。この存在様式においては、問題となるのはただ私が財産を取得すること、そして取得したものを守る無制限の権利を持つことだけである。“持つ”様式は他人を排除する」
フロムは“持つ”という中で見失われがちな、“ある”というものの価値を再発見したのです。現在の社会はフロムのいう“持つ”という存在様式が優先されている社会です。
この『「大」を疑え。「小」を貫け。』で2人がいう“常識”は、フロムのいう“持つ”がもたらしたものではないでしょうか。“持つ”ことが生み出した価値観(=常識)に縛られ、その中で生きなければならないことが疲弊した心を生み出しているのです。
そこから脱出するためのさまざまな処方を記したのがこの本です。桜井さんの感性の再発見だけでなく、鍵山さんの“凡事徹底”と“掃除道”もまた私たちを縛る“常識”からの解放を説いているように思います。陰徳ともいえそうな“掃除道”は目先の利や近視眼的な理ではないものを私たちに感得させるのではないでしょうか。
心が苦しさを感じたとき、重く感じたとき、なにかに迷った時、この本のページをそっと開いて読んでください。どのページからでもいいと思います。元気の種が見つかります。
生きてるうちに地位やカネに魂を売り渡してしまったやつに、死んで魂が残るはずがありません。(略)みんな外の世界、モノだとかカネだとか、そういうものに気をとられていますが、もっと内面を大切にするという、そういう気持ちをもたないといけません。鍵山さんがいうように、まず心を鍛えること、自分をしっかりすること、そして家族を大切にすること。(桜井さん)
桜井さんはさらこんなことも記しています。
目標はもちなさい。でも、期待をもつなよ(略)期待には絶対に「病」が入る、過ちや、犯罪につながる。でも、人間は歩んでいかなきゃいけないから、目標はもちなさい、といいます。目標と期待とは違うぞ、と。
「何にもならないことをやったときにのみ、人間は成長できる」ということを信じて。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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