政治とは何かという問いかけから始まり、政治制度はどのような理念に支えられ、どのような変遷をたどって“民主主義”へと至ったのを概観したあと、“民主主義”をどのようにして支えていくかを論述した好著です。
“民主主義”は優れた政治制度ではありますが、大きな落とし穴があります。それは「独裁制」です。とはいっても「独裁制」は民主主義と対立するものではありません。そこがやっかいなのです。
──民主主義では、絶対の権力を人民が握っている。そういうかたちの、絶対の国家主権が存在する。民主主義と独裁主義のあいだには、その絶対の権力を、みんなが握っているか一人が握っているかという違いしかない。それをヒトラーが握ったのが、ナチスドイツ。民主主義的なワイマール共和国からヒトラーのような独裁者が登場したように、民主主義は状況次第で、いつでもいわゆる独裁制に転化しうるわけです。──
民主主義には「法の絶対性」があります。ですから、主権者が「独裁者に権限を与える法律をつくる」ことで独裁制を成立させてしまうのです。
──民主主義とは、「さあ、独裁政治になってください」と培養液を入れたシャーレの蓋を開けて待っているようなもの。そこに「独裁菌」が飛び込んでくれば、すぐにホンモノの独裁制になる。そういう不安定な制度なのであって、それを自覚することが、民主主義を健全に運営するための第一歩になります。──
民主主義と独裁は対立するものではありません。地続きといっていいものです。
ではこの「独裁菌」をはびこらさせないためにはなにが必要なのでしょうか、どうすればよいのでしょうか。ここには“多数決”という原理も関係してきます。
──多数決は何が正しいかを多数で決めているわけではない。何かを決めるのには多数で決めようと合意しているから、それが全員を拘束するのです。決定が正しいかどうかということと、その決定が正統かどうかということは、別問題。──
つまり“多数決”は決定したことの法的な「正統性」は保証するけれども、それは「正しさ」を保証するものではありません。つまり民主主義の手続きで“正統”な「独裁制」を生むことができるのです。
では、この「独裁菌」をはびこらさせずに“多数決”という機能を生かせるにはなにが必要なのでしょうか。それが「言論の自由」です。
──大切なのは、相手が自分と異なる主観、価値観を持つのはなぜなのか、その理由を理解しようと努めること。もちろん自分の考え方にもそれなりの理由があるのだから、それを相手に説明することも大事だが、それと同じように、相手のことも理解しようと努力する。──
「言論の自由」がないところでは「正統性」は「正しさ」から乖離し、強制力(=暴力)をもたらすことになってしまいます。
最近ではこんな発言がありました。
「私が述べたことを全くご理解頂いていないようであれば、(審議を)何時間やっても同じですよ」(11月25日年金制度改革法案を審議している衆院厚生労働委員会での安倍首相の発言)
これに類する発言はほかでも見られます。一定程度の審議時間が過ぎれば採決するという言辞もしばしば聞かれます。これでは形式的であっても時間が経過すれば審議を終了してもよいということになってしまいます。確かに緊急性のある課題というものもあるとは思います。けれどそれは一定時間の消化(?)があれば結論づけてよいということと同義ではありません。
──民主主義は決して能率がいいとは言えない。独裁制のほうがさっさとものごとがきまったりする。また、意思決定の質が高いともかぎらない。──
けれども民主主義ほど正統性を保証するものもないのです。なぜなら、
──すべての人びとが、「この決定は自分たちの決定である」と確信できるメカニズムになっている。自分の決めたことに文句を言う人はいないでしょう。だから正統性がゆるがない。──
つよい正統性を持っている民主主義だからこそ“言論の自由”を求めることが重要になるのです。
──民主主義の決定は多数派を形成することで行なわれ、多数派の形成は言論を通じて行なわれる。だから、決定の質を高めるには、言論の質を高めることが大切。──
くわえて民主主義が強い「正統性」を持てるのには“言論の自由”によって「少数意見を守るシステム」があるからです。
なぜ少数意見を尊重しなければならないか。それは「多数派の意見が誤りだとわかった場合」には、そうした少数意見を「復活」させなければならないからです。「次の決定には、それが大きな影響力を持つ」ということがありうるからです。
けれど日本の政治の現状をみるととても民主主義だとは思えません。意見を闘わすこともなく、形式的な手続きと一方的な言葉のやりとりがあるだけです。言論は荒れ、質は落ち、それにつれて必然的に決定の質も悪化していきます。劣化といってすませる時ではありません。どうすればよいか……橋爪さんはこの本で「草の根民主主義の作り方10ヵ条」を提案しています。必読の個所です。
でもその先の橋爪さんの問いかけには思わずゾッとしました。
──日本の民主主義は、なぜこんなに、本来の民主主義からはずれてしまうのだろう?──
これに対する橋爪さんの考察はこのようなものでした。「日本語を使ってものを考えるせいで、どうしても、本来の民主主義からずれてしまうのではないか」と。これはどういうことでしょうか。
──たとえば、「公(おおやけ)」。「大きな建物」のことだから、偉い人、権力者という意味である。そして、国家権力とか、政府とか、官僚機構とかいう意味にもなる。要するに、ふつうの庶民と反対の概念。(略)「公」は政府や官僚機構が独占しており、ふつうの人びとはその外側に置かれている。
だが、英語でパブリック(the public)といえばどうか。「公衆」と訳すのでなんとなくわかりづらいが、要するに、「いい大人が大勢集まる」という意味。ふつうの人間(つまりわれわれ)のことにほかならないから、日本語の「公」の語感と正反対である。そして、どちらが本来の民主主義かと言えば、断じて、パブリックのほうなのである。
──
私たちが日本語で考えているかぎり、日本語自体にまとわりついている観念・概念が知らないうちに私たちの思考を縛っているのではないか。「公」という言葉自体がはらんでいる(私たちに想像させてくる)ことに注意しなければならないという警鐘です。
「公」は決して「至上」を意味しているわけでも、「私」の上位概念でもありません。ましてや「天(=不動)」というものであるはずはありません。
──「公衆」からすべてが始まる。(略)こういう事業をしたほうがいいと思うから、税金を集めて、警官や消防士や政府の職員を雇おう。議員や検察や裁判官を選ぼう。彼らは公務員(パブリック・サーバント)、すなわち、公衆(税金を払っているふつうの大人たち)に従属する「使用人」なのです。だから、政府や官僚機構が「公」を独占するなどという発想は逆さにしても出てこない。民主主義の原点は、「公衆」である。「いい大人が大勢集まる」ことが究極、最高の公共性のありかたであり、これ以上はないのだ。──
この「常識」を肉体化することことが「民主主義」なのだと思います。私たちが言論の自由を求め、自ら手を差し伸べなければ、腐食し独裁をもたらすものとして「民主主義」があるのです。この本は政治を至上のものでも、難しいものでもなく、「主体的」に私たちが関わるものであることを教えてくれる実践的なものです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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