「鬼胎」という強烈な文字が眼に入ってきます。「鬼胎」とは「おそれ。心配すること」を意味しますが、司馬遼太郎さんが日露戦争以後の日本の暗い歴史を指してこう記したそうです。
──司馬は『この国のかたち』のなかで、日露戦争以後の歴史を、日本近代の初々しくも健気な精神と似ても似つかない「異胎」の時代──あるいは「鬼胎」の時代と呼んだ。それは、日本全体が、「統帥権」という魔物によって翻弄され、魔術の森に迷い込んだような、正気とは思えない厄災の時代だった。まるで胎盤の一部となる絨毛膜の組織が異常増殖して胎児を死に至らしめるように、日露戦争以後、溌剌としたとした明治国家のレガシーはその内部に異常増殖した組織によって息の根を止められてしまったのである。──
1932年に建国宣言した満州国もまた「異胎」でした。“王道楽土”“五族協和”を理念・スローガンとして掲げた満州国は、後に中国、東アジア侵略を正当化した大日本帝国のスローガン“八紘一宇”の原型でもありました。
満州国は独立国と自称していたとはいえ国際的には承認されることなく、事実上の大日本帝国の傀儡国家でした。それをあかしているかのように、この本の主人公の一人・岸信介は戦後になっても「満州帝国を“自らの作品”と豪語」していたそうです。
この岸の自慢の作品・満州国が生んだのがこの本のもう一人の主人公・朴正熙でした。戦後韓国の独裁者となった朴の“ルーツ”は満州国にあったのです。
この本は、第2次大戦後の日本の保守化(反動化)の旗を振った「官僚政治家」岸信介と「解放後の韓国」に絶大な影響力を振るった「軍人政治家」の軌跡を追うことで、かつてあった「満州国」の理念と実態を浮かび上がらせた異色の歴史書です。さらにいえば、この二人を追うということは「満州国」の歴史が1945年の日本の敗戦では終わっていないということです。「満州国」の歴史は「現代史」というより「現在」そのものに繋がっているのです(この本でも「戦後と満州国の残映」に半分近いページが割かれています)。
岸にとって満州国とは自らの国家構想の理念を試みる絶好の場でした。「革新の意気に燃えるエリート官僚にとって、満州国は、自らの描く国家構想を実現できる格好の『実験場』のように映った」のです。
岸の国家構想とはどのようなものだったのでしょうか。早くから北一輝の国家社会主義の影響を受けた岸は国家(行政権力)による「全機能的把握主義」によって国権を強化し、統制経済を志向していました。その可能性を満州国で試したのです。満州国は表面的には立憲共和国の装いをしていたものの、実質的には「立法院もまったく機能しない、名ばかりの代議政治」であり、「満州国の軍事上の実権は関東軍」が、「内政上の実権は総務庁」が握っていました。
──満州国の統治過程とその実態は、関東軍の内面的指導にもとづく「総務庁中心主義」の独裁的集権主義にほかならなかった。──
テクノクラートによる独裁といってもいい国家機構になっていました。このような政治体制は岸にとって自分の国家構想を実現するのに絶好の場であったのです。
この独裁的権力によって指導された満州国の政治・経済政策は第2次大戦後のいわゆる“開発独裁”のモデルともいえるものでした。戦後の韓国で独裁者となった朴正熙もこの満州国の“開発独裁”モデルで韓国に経済成長をもたらしたのです。
では独裁者・朴正熙は満州国でどのように生きたのでしょうか。
──鬱勃たる野心を抱きながら、立身への道を塞がれていた植民地の青年にとって、満州は、出世への階段を約束してくれる新天地に思えたに違いない。──
満州国陸軍士官学校に入学した朴が選んだ道は「大日本帝国の皇国軍人の道」でした。
──「皇国臣民」(内鮮一体)と「満州国国民(=鮮系国民)」(鮮満一如)のはざまの二重のアイデンティティを強要された在満朝鮮人の一部は、徹底した「皇国臣民化」を通じて「一等国民」に「変身」しようとする内的な動機に駆動され、官僚や軍警、大学などの「活路」を見出そうとしたのである。朴正熙はまさしくそうした青年たちのひとりであった。──
陸軍中尉として日本の敗戦(朝鮮解放)を迎えた朴正熙には、独立後苦難の道が待っていました。幾たびか死刑になりそうになった彼を救ったのは“満州人脈”とでも呼べるものだったようです。この戦後の部分は「軍人政治家」誕生の評伝として興味深く読めるこの本の優れたところだと思います。
“満州人脈”に救われたのは岸信介も同様です。周知のように岸はA級戦犯容疑で巣鴨プリズムに収監され、一度は「戦争犯罪人として極刑を覚悟しなければならない窮地」に追い込まれていました。その窮地を救い、釈放後の岸を政治家として復権させたのもまた“満州人脈”でした。
著者たちによると岸と朴には4つの共通点がみられるそうです。
1.満州人脈。
2.冷戦の利用による復権。
3.内面深く米国への反発心を抱きながらも、同時に対米依存を通じて権力を強化。
4.満州国の建国を含めて「戦前」の歴史をいささかもくいていない。
岸の“自慢の作品・満州国”の実験の成果は戦後日本に大きな影響をもたらすことになりました。それは戦後日本に経済成長をもたらした「傾斜生産方式」という政府主導による経済運営です。ある種の“開発独裁”とでも呼べるかもしれません。
岸にとっては敗戦直後に危機はあったものの想像以上に戦前と戦後が通底して見えていたのかもしれません。著者たちはこう記しています。
──岸の基本的な思惟様式とそれを支える心情において真の断絶はみられなかった。岸の場合、戦争の時代、平和の時代、そのどちらにおいても、それぞれ独自の方法で、国家の安危に関心を注ぎ、国家によって指導された革新主義を実現しようとしようとしたのである。──
戦後日本と韓国を作り上げた大きな要素に満州国は大きな影を落としていたのです。「満州国は、岸のような「鬼胎」と同じようなDNAを受け継いだ軍人(朴正熙)の揺籃の地」でもあったのです。
この実験は終わりを告げたのでしょうか。著者はこう記しています、「再び国家や統制、計画化というタームが注目される中」で満州国の実験、「朴正熙と岸信介の時代はまだ真の意味で終わってはいないことになる」と。
間違えてはいけないのは「満州国」は必ずしも成功例ではないということです。強力な国権のもとで行われた実験国家でした。この実験にはある条件が必要です。“人権を制限できる国家権力”が必要でした。この実験国家にはもうひとつの顔があったことを忘れてはならないと思います。この国家は同時に「“満州国の夜の帝王”と恐れられた甘粕正彦や“阿片王”里見甫」が暗躍した国だったのです。岸も彼らとの「ただならぬ関係」を持っていたと考えられているようです。
なによりも満州国では軍国主義のもとで、自由などの基本的人権は制限されていたということを忘れてはならないと思います。この本は歴史書というには生々しい「政治家」の姿を追った傑作歴史評伝でもあるのです。