個人情報を伏せて報道された容疑者の本名が、半日も経たずにインターネット上に流れる。
ありがちな話だ。生活の痕跡を完璧に消せるような透明な存在でもない限り、個人情報は集められるし、それらをネット上で突き合わせれば精度の高い個人特定も可能になる。「BlogやSNSにUpされた写真から撮影場所を特定し、撮影者の住所や所属先を割り出す」なんてことは日常茶飯事で、炎上が発生する度に渦中の人の個人情報が興味のある第三者によって暴かれ、晒されている。
一度個人情報を流されるともはや情報の拡散を止めることはできない。検索エンジンにはキャッシュとして保存され、引用と転載の嵐に乗って削除不可能な場所まで飛んでいく。当該人物としては恐怖を覚えずにはいられない。誰もが自分のことを知り得る立場にあるのだから……誉田哲也『Qrosの女』はそんな恐ろしさを描いたエンターテインメント作品だ。
Qros(キュロス)というブランドのCMに出演した謎の美女、通称『Qrosの女』。芸能記者の矢口は彼女の正体を暴き芸能記事をものにしようと考えたが、執筆するにはあまりにも情報が不足していた。ブラック・ジャーナリストとして悪名高い園田と接触しても、緘口令が敷かれているとのことでめぼしい情報は得られない。矢口は先輩記者の栗山とともに共演者の自宅を張り込むことにしたが……。
矢口、栗山、園田という立場も実力も異なる3人の記者たちが、三者三様のやり方で謎の女を追いかける。ドロドロした芸能界の内側に潜り込み、関係者への聞き込みを一心に行いながら、ときに違法な手段に手を染めてQrosの女の正体に迫る。
……というストレートな話かと思いきや、実はそうではない。『Qrosの女』は視点人物を切り替えながら同じ出来事を多角的に語る群像劇であり、矢口→栗山→園田と主人公たちがバトンを繋いでいきながら、段階的に真実を明かし読者の展開予想を裏切っていく。矢口視点では一切が謎のままだったQrosの女も、栗山視点に切り替わると、今度は匿名の悪意から守るべき存在として描かれる。
話題沸騰中のQrosの女。その正体を推測するインターネット上の書き込みの中に、明らかな真実が混じっていた。何者かが彼女に近付き、不当な方法で個人情報を集めている……Qrosの女との接触に成功し、倫理なきプライバシーの侵害を目の当たりにした栗山は、義憤に駆られ追及者の正体を探り始める。
大量のデマに混じる日時も場所もぴったりの目撃証言、引っ越してもすぐに特定される住所……Qrosの女はリアルを割られてしまう恐れから日常生活にも支障を来すようになり、毎日のようにネットを巡回して新しい情報が出ていないか探るようになる。見れば心を乱すものに違いないが、それでも見ずにはいられない。Qrosの女の行動は唐突な炎上に巻き込まれた人々を思い起こさせる。
ネットは恐ろしい。情報の取り扱いは厳密ではないし、「これ以上は口外しないで」という約束も通用しない。相手がみなし公人なのか、ただの市井の人なのかといった点も考慮しない。疲弊したQrosの女を目の当たりにして雑誌記者である栗山が憤るのも無理はない。
──規制なきネット情報の渦に飲み込まれた個人は、はっきりいって無力だ。それと比べたらマスコミは紳士的だ、などというつもりもないが、少なくとも週刊誌記者は自らの顔を晒して取材をしているし、編集部はクレームを受け付ける。そう簡単に記事の掲載を見送ったり謝ったりはしないが、訴えられたら出るところには出る。負ければ潔く賠償もする。
これを義憤といったら、目くそ鼻くそを笑う、と思われるかもしれない。しかしあえて、栗山は違うといいたい。週刊誌記者は、知り得た情報をなんの分別もなく垂れ流しているわけではない。編集倫理だって、企業論理だってある。ただ「神」と煽てられたいだけの、悪意のボランティアとは根本的に違う。──(p144-145)
栗山は記者らしい手段を駆使して調査に乗り出す。機転の利く妹やブラック・ジャーナリストたちの協力を得て、真犯人のまとう匿名の蓑を引き裂いていく。記者としての生き様や苦悩、悪意に満ちたインターネットの姿、ドロドロした芸能界の裏側など『Qrosの女』の持ち味はいくつもあるが、それらの諸要素がきっちりとエンターテインメントの枠に落とし込まれた痛快な作品と言えるだろう。
しかしこれだけでは誤解を招きかねないので、念のため申し添えておきたい。『Qrosの女』は紙媒体の記者を善、インターネット上の匿名ジャーナリズムを悪とする二項対立で語れるような単純な作品でもない。最初の主人公である矢口はプライベートを暴かれる芸能人に対して同情的だ。栗山は栗山で、ある芸能人の一生を破壊した過去がある。園田視点で明かされるブラック・ジャーナリストの本性は実に醜悪だ。ここでは鼻くそを笑う目くその汚さも見落とされてはいない。
そもそも話の構造からして皮肉めいている。謎の女を追いかけていたはずの芸能記者たちが、今度は彼女を追いかける謎の人物を追及する側に回る。追う側と追われる側の差は本当に紙一重であって、実際の炎上事件でも加害者側と被害者側の立場が急に入れ替わることはある。炎上を観察するのは人間の負の部分に直接触れるようなものなので、間違ってもおすすめするつもりはないが、もし一度でもその手の「闇」に触れたことがあるなら、本書に対してまた違った感想を抱くだろう。
レビュアー
ミステリーとライトノベルをたしなむフリーライター。かつては『このライトノベルがすごい!』や『ミステリマガジン』にてライトノベル評を書いていたが、不幸にも腱鞘炎にかかってしまい、治療のため何年も断筆する羽目に。今年からはまた面白い作品を発掘・紹介していこうと思い執筆を開始した。