山田詠美氏の新刊「珠玉の短編」。第42回川端康成文学賞を受賞した「生鮮てるてる坊主」など、11の短編からなる作品集なのですが、このタイトルを見て私は一瞬、不思議な気がしました。
もちろん山田詠美氏は、色彩豊かな文章を操る、短編小説の名手でもいらっしゃいます。
だから「珠玉の短編集」が編まれるのに寸毫の不思議もないのですが、「珠玉の…」は、現代ではすでに多用され過ぎてもはや「ジャンルコード」みたいになった感もある惹句。その意味するところは「絶対安心」です。
しかし私が拝読してきた山田氏の作品は、「絶対安心」領域では断じてなかった気がするのですが……。
実際は、やっぱり違いました。私は「珠玉の短編“集”」と空目してしまいましたが、この本の表題作となった小説のタイトルが「珠玉の短編」だったのです。
メタ的というか、なんとも人を食ったタイトルですが、物語の中身はさらにとんでもなくアナーキーです。
主人公はスプラッター作家、夏耳漱子。こんな筆名ならまだ「トルストイ子」とか「マルセル・プルース子」とかのほうが趣があるくらいで、「読者にケンカを売っているのけ?」と思うほど。ものすごく大きく豪快なバットスイングを感じさせます。
彼女が書く作品も凄まじく、エログロ血まみれ全開。そうなったのは、女性作家が残酷描写に踏み込むことに対する、社会的な目線も原因のひとつだったりするのですが、とにもかくにも現在の漱子は、血しぶき作家として文芸界に確固たるニッチを獲得している。
しかし小説雑誌のある号で、漱子が常のごとく執筆した「きょうだい血まみれ猫灰だらけ」という血まみれ性愛地獄作品に、常ならぬ惹句、「珠玉の短編」がつけられていた。なんで?
「何を考えているんだ」。怒りに任せて担当編集者に電話するのですが、その出来事をきっかけにして漱子は「珠玉」という言霊に取り憑かれ、侵食されはじめる。
しかしスプラッター作家である彼女が、珠玉感を追いかけるようになってしまったら。それは書き手として一大事です。
なんとも凄いのは、この物語を十全に描ききるためには、血まみれスプラッター描写と、「珠玉の短編」と呼ばれるのにふさわしい自分語り私小説文体という、まったく相反するふたつの世界を行き来する必要がある。しかしそれを山田詠美氏は、軽々とやってのけるのです。
血まみれ描写はたとえキスひとつでさえも、とことんねばねばぬめぬめノリノリで言葉を繰り出し、私小説自分語り文体は、まるでおちょくっているかのごとく、実に深く甘酸っぱい。
作者の超絶技巧に乗りに乗せられて、読者は噴き出しながら一気に読み終えることになるでしょう。
ただ、このように書くと超絶技巧ばかりを強調してしまうことになりますが、山田氏の短編の魅力は、もちろんより多彩です。
川端康成文学賞を受賞した「生鮮てるてる坊主」の主人公は奈美。彼女は人の夫、孝一と大学以来、長く「親友」関係を続けている。
そこに恋愛感情など一切介在していない。しかし男女が友情でも結ばれることを理解できない人種もいて、孝一の妻、虹子はまさにそんな人間、と奈美は感じている。もっとも奈美は、虹子のこともまた大切な友だちだと思っています。
だが、この三人の関係は、果たして持続可能なものだったのかどうか。剥き出しの性よりもなお、毒々しいなにかを生み出していたのではないか。
描かれるのは悪でも正義でもなく、愛と人の欲望。存在するのは、ぞっとするほど美しい恐怖。山田氏が切り取った世界に引きこまれ、読者は自分もまた雨に打たれながら立ちつくし、奈美と虹子の姿を息を飲んで見つめているような気持ちになることでしょう。
どの作品も、言葉と肉体の感覚がもつれ合い、時には格闘し、時には自由に暴走する。
山田氏が紡ぐ、人の心をとらえて離さぬ妖しい宝石箱。11編の「珠玉の名品たち」を心ゆくまでぜひ、ご賞味ください。
レビュアー
作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に〝中年の青春小説〟『オッサンフォー』、 現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証 言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。