豊臣秀吉というと微賤な境遇から身を起こし、非命に倒れた織田信長の意思を継いで天下統一を成し遂げた英傑であり、天下一の果報者ともいわれています。今でも“太閤”という名で親しまれ、豊臣秀頼の横死もあり一代の悲劇の英雄とも思われています。失政は朝鮮出兵(唐入り)で、これは秀吉の耄碌(もうろく)や世継ぎの死が重なり、無謀な戦にでたものだといわれています。
この本はそのような先入観(=太閤伝説)をひとつひとつ検討し、新たな視座を提供しているものです。手堅い実証を積み重ね綴られる論はとてもスリリングで読んだ人は目から鱗が落ちる思いがするでしょう。
まず考えなければならないのは「天下」とは何を指しているのかということです。「天下統一」という言葉から思い浮かべるのは、全国を制覇し、中央に強力な政権を打ち立てたというものでしょう。けれどここで肝心なのは“天下=全国”ではないということです。秀吉の先人の信長も同様ですが、戦国当時の大名にとって“天下”は畿内であり、せいぜい室町幕府の支配領域であるということです。毛利元就がその死に際して「天下を望んではならぬ」と遺言した天下とはこの地域を指しているのです。
ここで黒嶋さんは問題提起します。それは「秀吉は誰から天下統一のバトンを受け継いだのか」というものです。その答えは織田信長でなく、「室町幕府」というものでした。
──戦国の乱世のなか、蝉の抜け殻のように有名無実化したイメージのある室町幕府だが、武家秩序の面では依然として将軍の足利氏がその頂点にあった。戦国大名たちも自身の立場を正当化しようと、武家秩序のなかで地位獲得を渇望し、将軍を頂点とする序列を受容していた。──
この室町幕府への形式的ともいえる各大名との主従関係を豊臣秀吉政権も(とりわけ初期は)踏襲していました。大名は秀吉によって本領を堵されたことの返礼として、秀吉に従うことの証として「御礼(おんれい)」というものを示しました。
──この「御礼」とは、政治的な意味では現代の「おじぎ」の用法に近く、すでに存在している政治秩序の遵守(じゅんしゅ)を誓うもの、ひいては秀吉との上下関係を受容した「服属の表明」と解釈される行為である。──
秀吉の政権とは畿内(=天下)の直轄領と秀吉の覇権を認めた諸大名との連合政権と呼ぶべきなのかもしれません。これは後の江戸幕府(徳川家康)にも通じる支配体制ともいえます。
ところで、この体制には不安定な要素があります。天下人と目された(!)ものとの連合ですから、「秀吉は、服属させた後も、天下人の威勢を強めていくことで、大名との力関係を更新していかなければならない」ことになります。それが「権威」と「武威」に基づいた“権力”を行使して、秀吉が服属したのちに大名に命じた移封・国替えです。
秀吉が利用した「権威」のもとになったのは、いうまでもなく朝廷による官位受任でした。秀吉は関白となることで「まずは天皇と大名から国内的な承認を取り付ける」ことができたのです。そして「承認」のもとで権力を行使し、同時に「武威」を高めていったのです。
「まずは国内的な承認」であるからには「国際的な承認」というものも必要だったのです。それがもうひとつの本書の主題となっています。
かつて室町将軍は明(=中国)の冊封体制に進んで組み込まれることで“日本国王”の称号を得、またそれによって交易の利を得ることができました。秀吉が望んだのもそのような「国際的な承認」というものでした。当時の日本にとって世界帝国(世界覇権国家)とは明でしかありません。南蛮とよばれたイスパニア、ポルトガル、オランダ等の西欧ではありません。
ではなぜ「唐入り」ということが行われたのでしょうか。秀吉の中にあった日本を優位国と考える「中華思想」がそれを後押ししたのです。「中華思想」というともちろん本家は中国です。けれど秀吉にも自国(日本)を優位とし「隣国を下位と見る意識」あったのです。この日本を優位と見る意識は秀吉だけでなく、「旧来の伝統的な対外観に基づくもの」でした。
──秀吉の中華の特質は、明というライバル国と、それ以外の服属国という二段階に分かれていたことだ。当初、豊臣政権は「唐国までも」を口にすることで明を日本と同等以上のライバル国とし、海賊停止令を出すことで、あわよくば明から国交を持ちかけてくる可能性を探っていた。ところが、いくら待っても明からの反応はなく、「唐国までも」は「唐入り」という軍事行動に装いを改めていく。「唐入り」を理由に、服属国にも諸大名と同様の軍事的な奉公を命じており、「唐入り」を設定することで、服属国と諸大名が一丸となって、秀吉の中華が大陸の中華に挑む構図を作り出すことになるのだ。──
この服属国とは琉球と朝鮮を指しています。そして命に従わない朝鮮を「軍事的に屈服」させるために朝鮮出兵が実行されたのです。黒嶋さんによればこの出兵の目的は「(朝鮮)国王の出仕を実現させること」だったのです。
思えば明との関係は実にアンビバレントなものでした。国際的に「承認させる」ことができる帝国とみなしながらも、日本が明の服属国となることは認めませんでした。実際に、承認ということでいえば文禄の役の休戦後に秀吉は「日本国王」として明から冊封されています。秀吉だけでなく徳川家康(右都督)、前田利家(都督同知)、石田三成(都督僉事)ら十数名も明より補任されています。
ライバル(と見なしていた)国からの冊封、それは上下関係を認めることにはならないのでしょうか。秀吉政権は「冊封」という意味を読み替えたのだというのが黒嶋さんの指摘です。ここの秀吉の思考転換はぜひ読んでください。天下人秀吉のマキャベリストぶりがうかがえます。目的は秀吉政権の「承認」と「対明通交の公式名義を獲得できる」ことであり、そのための「冊封」でした。
朝鮮は日本を同じ「冊封」体制下の国家と考えました。同等の国家です。けれど朝鮮を服属国としか見なしていない秀吉は、自己の「権威」「武威」を認めない朝鮮の態度を正すべく再出兵します。それが慶長の役だったのです。明らかに性格の異なる戦でした。
──いつか見た光景が繰り返されるなかで、文禄の役と違うのは、これが明確に「唐入り」とは語られなかったことだろう。──
秀吉の死去で日本軍は朝鮮から撤退します。
秀吉から天下を引き継いだ徳川家康にとって問題は明との国交回復です。明は冊封後にもかかわらず朝鮮出兵を強行した秀吉政権へのアレルギーから、なかなか家康政権との平和的交易に踏み切れませんでした。間に入った(入らされた)琉球もそれ以前に行われた明との交易も閉ざされてしまいます。明との交渉の窓口を失ったのです。
そして家康がとったのが「ハト派という仮面」でした。それをめぐる家康の苦渋がこの本の最後のテーマです。家康によって完成した天下統一は国際的には「鎖国」へといたる道を開くことになりました。それは当時の日本が国際的な承認を得られず、国内的な秩序維持にしかできなかったことを意味しているのかもしれません。天下統一が閉じた国家を作ってしまうという逆説、国際関係の中での“承認”というものはきわめて今日的なテーマではないかと思います。力の入った1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。
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