楠本スミレは、不思議なものが見えてしまうちょっと変わった女子高生。ある日、彼女は不思議なものを見たついでに、父親の不倫現場も目撃してしまう。普段はおっとりしているスミレも身内の不貞は見逃せず、父と若い愛人を尾行することに。しかしその途中で、商店街の古い映画館に迷い込んでしまった。スミレはその映画館の映写技師・有働に恋をする。初恋だ。学校と家庭で問題を抱えているスミレは、やがて、幼い娘を残して蒸発した男性の失踪事件に関わってしまい、不思議な映画館の秘密も知ることになるのだが……。
これが『幻想映画館』のあらすじ。本作は、堀川アサコさんの幻想シリーズ第2弾となる小説作品だ。
ところで、この幻想シリーズには、楠本観光グループの会長を務める楠本タマヱなる女傑が出てくる。彼女は主人公スミレの大伯母様だ。作中、その大伯母様がこんなことをおっしゃっている。
「塵やホコリが、映写室からの光で、そこだけすっかり見えてしまうのです。まあ、ホコリなんですからほめられたもんじゃないですよ。でも、小さかったわたくしには、それが魔法の粉に見えたものだわ。魔法の粉が、あの高い小さな場所から放射されて、それが映画になるんだと、そんなふうに思ったの」
この台詞に、僕はうんうんと相槌を打った。僕は子供の頃、父親によく映画館に連れて行ってもらった。父が開けたドアの隙間から、うっすらと光が差し込んで、中の埃がふわっと浮かんで見える。現在主流のシネマコンプレックスだと出入りの時間が厳密に決められているが、昔はお客さんの好きなタイミングで自由に映画を鑑賞できた。暗がりに浮かぶ光と散り散りの埃を目にする機会は、別段珍しくもなかったのだ。
子供の頃から絵空事が大好きだった僕は、映画館で目にするその埃が「普通っぽくなくて」好きだった。タマヱ大伯母様のように「魔法の粉」なんて素敵なセンテンスは思い浮かばなかったけれど、映写室から投影される光とその周辺に舞う埃は、子供の目にはとても幻想的だった。現実と異世界の中間地点にでもやって来たみたいな気分で眺めていたのかもしれない。
そんな非現実感を伴う場所だからこそ、たとえば夜中に、こっそり映画館に忍び込んだら、幽霊でも出そうな雰囲気がある。昨今の小綺麗なシネマコンプレックスならいざ知らず、昔の古い映画館だと、むしろ夜中にお化けが出ない方が不自然かもしれない。
シリトリが趣味という、ちょっと変わった女子高生・楠本スミレが、とある理由からアルバイトをすることになった「ゲルマ電氣館(でんきかん)」も、まさしくそんな映画館だ。実際、ゲルマ電氣館には真理子さんという幽霊がいるのだが、幻想シリーズ第1弾『幻想郵便局』を既読の方にはお馴染みのキャラクターだろう。
レビュー冒頭のあらすじにも書いたように、スミレはそのゲルマ電氣館で、映写技師の有働に恋をする。本作は、スミレの一人称が愉快なコメディタッチ作品かつ、彼女の甘酸っぱい恋愛物語も兼ねている。中盤を過ぎたあたりからは、ミステリとしての色合いが濃密になり、最後にはあっと驚く真相が示される。そんな本格ミステリ小説でもあり、学校での孤立、両親の不仲、孤独死や悪徳商法など、実は社会派作品の一面も併せ持つのが『幻想映画館』だ。社会派と聞くと、重苦しい内容を想像してしまいがちだが、すでに述べたように本作はコメディタッチの愉快な作風なので、読了するまでずっと楽しい気分でいさせてくれる。
著者の堀川さんは、文庫本のあとがきでこうおっしゃっている。
「どうしてもガマンできなくなったら、逃げちゃえ!」
それが『幻想映画館』に込めた「最大のメッセージ」だと言う。このコミカルな苦労話が、ひとときの休息となりますように──同じく文庫本のあとがきで、堀川さんはそう書いている。なるほど、だからこの物語は最後まで愉快で楽しいのだろう。そうでなければ休息にはならないからだ。
確かに、人間、生きていれば困難な状況に直面することは多々ある。そんなときに立ち向かってばかりいては、ぐったりと疲れてしまう。最悪、心を病んでしまうことだってある。そんなときは、堀川さんがおっしゃるように、逃げて休めばいい。
スミレも辛い現実から逃げて、休んだ。そして彼女は、また前を向いて歩き出した。『幻想映画館』は、そうした経緯を丹念に描いた物語だ。コミカルな描写に笑い、謎解きを楽しめて、ついでに癒やされる──そんな世にも贅沢な小説なのである。
レビュアー
小説家志望。1983年夏生まれ。愛するクラブはマンチェスター・ユナイテッド。