〝ライフスタイル・デザイン〟という言葉を定着させた人として、また料理研究家としても著名なパトリス・ジュリアンさんが見つけた、豊かな暮らしを送るためのヒントが詰まったエッセイです。もともとレシピという言葉は、医者から薬剤師への、材料の準備ができるよう指示(処方箋)をすることを意味していた語だそうです。この本では彼が処方する30の生活のレシピが集められています。
ジュリアンさんのレシピ、その中心にあるのは〝幸せ〟を求めることから〝喜び〟を感じることへの気持ちの転換ではないかと思います。
〝幸せ〟は求めなければ、追いかけなければなりません。そして「成功させるにはたくさんの準備と努力が必要」ですが、それが必ずむくわれるというわけではありません。「めぐり合わせ、人間関係に左右される」ものだからです。人によっては「幸せを追いかけているうちに、あまりに遠い道のりで、途中で疲れちゃって放り投げてしまいたくなることだってあるはず」だとも。
ジュリアンさんがこの本で提案しているのはそのような〝幸せ追求〟ではなく、〝喜び感受〟とでもいえる生活=ライフスタイルです。
──朝起きてしっかりと呼吸して生きていられること、安らかな暮らしを維持できる仕事があること、大好きな友人と食事ができること、好きな人や愛する人が存在すること──。その、いたって「普通の日常」を〝喜び〟と感じることができれば、人はいまよりも豊かな日々を送ることができるようになる。──(本書より)
ジュリアンさんによれば、今の日本人は「かけがえのない人や出来事が目の前にあるのに、未来の不安に縛られて、〝喜び〟を喜びと感じられなくなっている」ように見えてならないそうです。「先回りしてかんがえるばかりに、本来、人が感じるはずの『いまこの瞬間の喜び』を放棄して」いるのではないかと。
どうすればこの〝いまこの瞬間の喜び〟を感じることができるようになるのでしょうか。そのために、「大切なのは、〝自分の心の声〟の存在を知って、〝その声に従ってみる〟こと」が必要なのだと記しています。なぜそれが難しく思えるのでしょうか。
こんな例が記されています。あるファミリーレストランのホール・スタッフの接客を見て、なんでそこまで、すべてのサービスがマニュアル化されているのだろうと思ったそうです。
──たしかにこれは、「正しいこと」なのかもしれない。誰も嫌な気分にはならないからね。でもやっぱり、完璧にマニュアルどおりなのは、機械的で無機質なサービスにしか見えないよ。まるっきりアール・ドゥ・ヴィーヴルの世界からは遠いもの。──(本書より)
アール・ドゥ・ヴィーヴルは「日本語に訳すと、〝生活のアート〟」です。でもそれは難しいことでも堅苦しいことでもありません。これこそが「自分の心の声の存在を知って、その声に従ってみる」ということなのだそうです。ジュリアンさんの言うように「もっとずっと自然なこと」なのかもしれません、私たちを縛っているものからちょっと離れられれば。「効率よく業務をこなすにはマニュアルが役立つかもしれない。けれどそれだけを盲信するというのは、自分の頭を使うことを完全にやめてしまうことと同じなんだ」。マニュアル文化は時に自分をなくすことにもなりかねないのです。レストランの接客でも自分なりの接客というものがあるはずだと……。個性ということにも大きく関わってくることなのでしょう。
ジュリアンさんは日本人にこんな心配(?)をしているようです。
──日本の型の文化のなかで長く暮らしていると、「ルールがない」というのは「適当でいい加減なことなんじゃないか」と思ってしまうかもしれない。でも、それは、けっして〝いい加減〟なんかじゃない。そこにあるのは〝ちょうど良い加減〟なんだ。「ぎりぎりの絶妙なライン」とでも言ったらいいかもしれない。料理の火加減や温度でもそうだし、人と人との距離だってそう。越えてもダメ、手前でもダメ。その的確なラインを〝心の声〟で感じることが、なにより優先されるべきなんだ。──(本書より)
日本文化に造詣の深いジュリアンさんですから、型の文化というものを狭く考えているわけではありません。日本文化の「守破離(しゅはり)」ということにも触れています。「型を守って、型を破って、型を離れて、最後は自分だけのスタイルを実現していくんだ」と。それは「ベースを大事にしつつも自分流のやり方を見出していく行為だろう。だから大事なのはやっぱり、型を破ることにある。それは、むかしから言い伝えられてきた型であっても、自分自身が勝手に決めてしまった型であっても同じことだ」とも。
今ここにいること、そのことを慈しみ、なにより大事なこととして生きること、それをジュリアンさんは優しい言葉で私たちに伝えているのがこの本だと思います。それは現状に満足するということではありません。未来に縛られることなく、現在の中に〝喜び〟を見出していくこと。それは料理と同じく自分の〝感受性〟を磨いていくことなのではないでしょうか。
創造的な生活(ライフスタイル・デザイン)があるとすれば、その磨かれた感受性の上に成り立つものなのではないでしょうか。30のレシピの中に自分にふさわしい、得意なものを見つるのはどうでしょうか。そこから始めて自分なりのアール・ドゥ・ヴィーヴルの世界を作ってみるのが、このレシピの正しい使い方のように思えるのです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
note
https://note.mu/nonakayukihiro