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2016.03.05

特集

インド人は世界中でCEO。暗記教育なのに議論できる理由は?

今、世界でトップクラスの企業にはインド出身のCEO(最高経営責任者)や取締役、執行役員などが目立つ。そうした企業において、どうしてインド人が抜擢されるのだろうか。
その秘訣を、留学時代から10年余をインドに滞在し、嫌と言うほど「インド」を見てきた山下博司氏はこう推測する。いわく、彼らの「頭のなかみ」に鍵がある、と。山下氏は、インド人は日本人とある種異なる構造(思考様式)をもっている民族であるがゆえ、彼らに辟易させられながらもそのポテンシャルやバイタリティにうならせられたという。
今回は、その「インド人」の知られざるすごさについて、講談社現代新書『インド人の「力」』を教科書に見ていこう。

著者紹介:山下博司(やましたひろし)

1954年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。マドラス大学ラーダークリシュナン哲学高等研究所博士課程修了(Ph.D.)。現在、東北大学大学院国際文化研究家教授。専門はインド思想史・文化史、タミル文学。『ムトゥ 踊るマハラジャ』などインド映画の日本語字幕監修も数多く務める。主な著書に『ヒンドゥー教とインド社会』(山川出版社)、『ヒンドゥー教 インドという〈謎〉』『ヨーガの思想』(ともに講談社選書メチエ)、『古代インドの思想 自然・文明・宗教』(ちくま新書)などがある。

インドの教育課程に見られる「暗記」

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インドの教育文化において、「暗記」はヴェーダ(古代インドで編纂された、インド最古の宗教文献)以来実に3500年の歴史をもつ。インド人は書くことより覚えることを重んじ、さまざまな分野で驚異的な記憶力を発揮してきた。バラモン教ではそもそも古代聖典ヴェーダの暗唱がそうであるし、初期仏教の経典群も、個々の弟子たちが集まって記憶を確認・集成した事業の産物である。現在でも、ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」の全篇(18章)を詠唱《えいしょう》したり、ヴィシュヌ神や女神たちの「千の名前《サハスラナーマ》」をそらで唱えるなど、暗記による伝承は健在である。ヒンドゥー祭司養成学校での修了試験も、膨大なサンスクリットのマントラ(真言)群の暗記力テストの趣を呈する。現にヒンドゥー寺院の祭司たちは、何も見ることなく数時間にわたって、淀みなくマントラを唱えながら儀礼を進行する。

インドの初~中等教育、つまり大学進学以前の段階は、基本的に丸暗記を含む詰め込み的手法で教育がなされる。しかも暗記重視は入学後のカレッジでも保たれる。現役の大学生(理工系)に聞いてみると、カレッジでは宿題アサインメントも多く課されるという。しかし、詰め込み型教育とはいえ、授業での質疑応答もこれまた活発に展開されるそうである。

IIT(アイアイティー・インド工科大学)出身で日本で企業を経営するサンジーヴ・スィンハ氏によれば、彼が在学中、教授が学生に論破されてしまったり、自信を失って講義を続けられなくなったりした教授もいたそうである。IITに出張講義に来ていた他大学の教授の講義レベルに、学生たちが不満を募らせ、学長に直訴して解任してもらった事件まであったとのこと(スィンハ、サンジーヴ『すごいインド』〈新潮新書〉、新潮社、2014年、74頁)。これらは極端な例ではあろうが、彼らは決して受け身の姿勢で受講しているわけではない。仮に丸暗記することがあるにせよ、その意義や必要性をも踏まえて、能動的かつ積極的に暗記をしているのである。

メモをとらずに管理できる

日本企業で働くインド人エンジニアは暗記や暗唱を重んじるインドの教育環境で育っており、会議の時でもいちいちメモをとらず、その場で頭に叩き込んでしまう。そのおかげで、彼らはメモやマニュアルに立ち戻らずに即決で処理ができ、きわめて効率的に仕事をこなすことができるのだという。ここにもインド人が日本で即戦力とされる所以《ゆえん》がある。私が知る範囲でも、日本にいるインド人技術者たちを含め、インドの人々は、スケジュール管理などをたいてい頭の中でこなしているようだ。手帳に予定をびっしり書き込んだり、ケイタイの機能を使って日程管理をしている姿にはあまりお目にかからない。

数字と数学の力

インド人の能力として、後述する「英語力」と並び称されるのが「数学力」である。もちろんインド人がおしなべて数学に強いわけではない。しかし、社会的にそれなりの地位にある人々は、まず例外なく数や数字に強い。数学うんぬんの前に数字そのものに強いのである。日本では、よほどでない限り電話番号をそらんじたりはしないものだが、インド人の中にはよく使う電話番号を丸暗記している人が多い。語呂合わせで覚えるのではなく、数字の並びをそのまま記憶するのである。

数字の記憶力もさることながら、「計算力」「暗算力」にも見るべきものがある。会社経営者などと話をしていると、何かを計算する際に、日本人なら筆算か電卓に頼ったりするところを、頭の中ですばやく答えをはじき出す。その暗算と速算の力には驚かされる。ドル換算などお手のものである。会話にもよく数字が紛れ込む。

インド人は2桁のかけ算を暗唱してるってホント!?

インド人は2桁の掛け算を覚えると言われる。インドはここ半世紀以上、初等教育で2桁の掛け算を教えてきたともされる。それ自体は正しい。しかし、「2桁」とはどこまで指すかとなると、諸説紛々である。矢野道雄教授がIITでおこなった調査によると、19×19まで暗記している学生は意外に少ないそうである。

それでは、実際に2桁の掛け算をインド式におこなう場合どうするか。白水和憲《しろうずかずのり》氏の著書『本当はどうなの? これからのインド』(201頁)に拠って紹介してみる。

「15×26」の場合、「15×20」+「15×6」となる。それぞれの積300と90を足して390となる。ただしこの方法は日本のやり方とも一脈通じているので、別の方法も紹介されている。それは、「15×26」を「10×20」+「10×6」+「5×20」+「5×6」に分けて、それぞれの積200、60、100、30を足して390を得るというものである。数字を区切りのよいかたちに分解することがミソで、この方法で99×99までが簡単にできるという。

以上の作業を、あくまで頭の中で処理するのである。インドの暗算法はヴェーダにまで遡る由緒あるものである。

インド人の「英語」力

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インド人の国外進出を容易にした第1の要因で、かつ成功の鍵となってきたものが「英語」である。

インドで英語は、準公用語として、多くの場合母語を異にするインド人同士のコミュニケーション手段に用いられている(白水和憲『本当はどうなの? これからのインド』〈中経の文庫〉、中経出版、2009年、189、197頁)。宗主国に押しつけられた植民地支配の象徴であった「英語」は、今や自分たちの必要に根ざした第2言語としての地位を確立しているのである。要するに、インド人にとっての英語は、「外来語」ではあっても「外国語」ではなく、かといって「母語」とも言えない。インド憲法で連邦公用語とされ、インドの言語としてもっとも普及しているヒンディー語ですら、話者人口はインド国民の3分の1程度(約4億人)にとどまり、普及にもムラがある。「多様なるインド」にコミュニケーションにおける「統一」を与えているのが、ほかならぬ英語である。

TOEFL受験者の平均スコアでは、シンガポールやフィリピンとともにアジアで常にトップクラスを維持している(シンガポールに次いで2位)。31ヵ国中26位(2014年のデータ)と、いつまでたっても最下位付近をうろうろしている日本とは好対照をなす。インド人がアメリカの大学を受験する時など、学校側がインド人の英語能力を勘案してTOEFLを免除しているところすらある。

バイリンガル、トリリンガル、マルチリンガルなインド

インドには少なくとも英語と現地語の2つを不自由なく使い分ける人が少なくない。現地語のほか、少々おぼつかないながら英語も使えるという人も含め、バイリンガリズム人口は軽く1億人以上にも達する。

私のかつての知人(故人)は、パキスタン側のパンジャーブ地方出身のヒンドゥー教徒だが、印パ分離独立でインドに移り、その後南インド・ベンガルールで幅広く事業を展開する実業家だった。彼自身はパンジャーブ語が母語だが、私とは英語で、家族とはヒンディー語で話し、ビジネスでは必要に応じてカンナダ語も操る。自宅ではヒンディー語圏出身の使用人たちを雇い、ヒンディー語で命じていた。仲の悪いムスリムの隣人に対しては、「ゴー・バック・トゥー・パキスタン!」と、なぜか英語でののしっていたものである。

上に紹介した多言語使用の諸事例は、特定個人に限られるものでも、大都市だけの特異な現象でもない。最低限の教育しか受けていない使い走りの職員でも、程度の差こそあれ、日常的にやっていることなのである。リクシャー(三輪タクシー)漕ぎのおじさんでも、下手なりに英語をしゃべったりしている。英語教育なしでも、使えてしまっていることに驚かされる。

インド人の「主張する」コミュニケーション手法

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「インド国民は言論の自由を120パーセント行使する」と言われる。インドには「10人集まれば12通りの考え方が生まれる」という言い方もあるそうである(広瀬崇子他編著『現代インドを知るための60章』明石書店、2007年、26頁)。

インドという国自体、立場や前提の違う者同士の寄り合い所帯である。一致点や妥協点を見いだすためには、どうしても意見を闘わせる必要がある。だからインド人は自己主張に労を惜しまない。低所得者層が暮らすエリアなどに行くと、いい年をした男女が人目もはばからず、口角泡を飛ばして口論する光景を目にすることがある。日本であれば人前での口喧嘩は見苦しいとされるが、インドでは自己主張に男も女もなく、場所も選ばない。日本では「口より先に手が出る」こともしばしばだが、インドではあくまで口(弁舌)が雌雄を決するのである。

議論好きが昂じて、インド人の間では話し合いで決着がつかないことも多い。インドと日本の会社が商談をおこなう際など、インド側の議論が紛糾してデシジョン・メイキング(意思決定)が遅れ、日本側がしびれを切らすことがあると聞く

ユニークな日本滞在記を書いたM.K.シャルマ──実は日本人(山田和)とも噂される──は、「(インドでは)話し合いで何かを決めるのは不可能にちかい。そんなことをしたら、誰もが自分の意見を主張して憚はばからないだろう。だから占星術師が必要になるのだ。(中略)インドのような複合国家は、国家原理の根幹にこのようなニュートラルで神秘的な決定手段を持っていていい」と述べている(シャルマ、M.K.『喪失の国、日本─インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』文藝春秋、2001年、18~19頁)。

煙に巻かれた感もあるが、なかなかの洞察である。なにしろ、イギリスから独立する日取りの決着にすら占星術の力を借りた国である。

頼み事も質問も大好き

LCC(格安航空会社)を使って低料金で渡航できるようになる前、インドと東南アジアを結ぶ定期便などに乗り合わせると、入国カードの記入にあたって、隣に座ったインド人からペンの貸与にとどまらず代理記入まで頼まれたものである。いい人ぶって一人に書いてやったのが運の尽き。あれよあれよと頼んできて後悔する羽目になる。労務者風なので英語が読めなかったり、(自署を除いて)まともに文字が書けなかったりするのだろう。要するに、インド人は他人にものを頼むにも気後れしないのである。

インド人は議論好きであり、質問好きであり、詮索好きである。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば質問魔である。旅行中にインド人から、国籍や職業にとどまらず、年齢、家族構成、はたまた給料の額まで訊ねられた人は多いと思う。講演などにおいても、そのあとの質疑応答が止めどなく続く。質問に名を借りて自説をまくし立てたりしている。私が所属した学科も同様で、講演会のあと議論がヒートアップし、予定時間を大幅に超過することも珍しくなかった。

譲らず人を言いくるめる

彼らは「自説」に限らず、何かにつけ譲ること自体をよしとしない。譲歩の文化がないのである。南インド・チェンナイでタクシーに乗っていたら、知り合いの温厚な書店主が自分の車に接触され、相手に怒鳴り散らしている現場を通りかかったことがある。自分に非がないのなら、たとえ他人に傷を負わせても、決して謝ったり譲歩したりすることはない。というより、自分に非があるとわかっていても、絶対に認めようとしないのである。

「多様性」が強さの秘密。インド人の時代はもう始まっている

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「インド人1人は中国人2人分の力を発揮する。だがインド人が2人集まると、中国人1人にもかなわない。インド人が3人集まれば……何の役にも立たない」
(現代インドのジョーク)

インドで一つのことを成し遂げようと思えば、いかにしてバラバラな人々を束ね得るかにかかっている。遠心力を求心力に変え得る能力、多様性を力に変える技量・力量が問われるのである。1人で2人分の能力をもつインド人。しかし3人集まると逆噴射が起こり、むしろ退行してしまう。こうしたインド人の心をつかみ、やる気を起こさせ、3人を3人分として、いや3人分以上の潜在力をそのままに発揮させ得るような人間力は、並大抵のものではない。

インド人の強さの秘密は「多様性」の星の下に生まれたということにある。インド的人間存在のありようそのものが、インド人の力の源泉なのである。今や国際企業のトップに昇り詰め、グローバル化社会の第一線でしのぎを削るインド系の人材は、そうした風土で鍛えられ、錬磨されて、自己を形成してきた者たちの代表である。「多様性」の星の下に生を享うけ、その境遇を力に変えた人々、インド的混沌カオスから人間存在の精髄を汲みとり、高度でバランスのとれた人心掌握術や人脈構築術へと昇華させ得た人々と言ってもいい。

インド人の能力のうち、特筆すべき3つを見てきたが、いかがだろうか。歴史的、民族的、宗教的背景が日本とまったく異なるために、我々の民族性と相反する面白い特徴が見られたのではないだろうか。

インド人の「力」』では、著者である山下氏がこれまで見てきた身近なインド人や豊富な文献から、さまざまなインド人の楽しいエピソードが紹介されている。実は冗談好きであるというインド人の、彼ら自身を揶揄したジョークや、インド人の性質をよく表したエスニック・ジョークなどもふんだんに盛り込んで、なぜインド人が世界的に活躍しているのかを見ていくことができる。グローバル社会で生きるビジネスマンの方には(インド攻略を含めた)ビジネスのヒントになるとともに、文化人類学的新書としても非常に興味深い一冊となるだろう。

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