著者は、ナチ・ハンターとしても知られる検事の名を冠したフリッツ・バウアー研究所の所長もつとめる、研究者・大学教授。2025年の著書『ヒトラー――ある独裁者の歴史』は、わずか128ページでヒトラーの歴史をまとめ、話題になったという。本書もまた全ページ引用したいくらいシャープで濃密、かつクールな文体で読ませるが、その醍醐味はなるべく読者に譲ろう。
アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)は、その地名が初めて文献で言及された1127年から、何世紀にもわたって支配者が何度も変わり続けた「境界地域」であった。19世紀末以後は大量の移民流入により、特別収容所が設置されたという。ただし、これは季節労働者用の移民収容所であり、のちの禍々しい「絶滅収容所」とは異なる。大きなターニングポイントとなったのは、やはり1939年のナチ・ドイツによるポーランド侵攻だ。第二次世界大戦の始まりであり、また国家主導による大量虐殺への道が大きく開いた瞬間でもあった。
読みながら、何度も思考が停止してしまう瞬間がある。人間はどこまで残酷になれるのか、何が欠落したら人間はたやすく「そちら側」へ行ってしまうのか。思わず自分がいま暮らしている社会と照らし合わせて考え込んでしまうような内容だ。文体は落ち着いているが、だからこそ背筋の凍るような瞬間も多い。
経済的な有用性に基づく収容者の選別は、一九四二年春に散発的に開始され、四二年七月四日から常態化した。この日、移送されてきたスロヴァキア系ユダヤ人を対象に、移送者全員を対象とした選別が初めて行われた。
この日は、組織的な絶滅の開始を意味する。親衛隊の医師と幹部たちによって行われた選別が、生死を分ける決定の基本方針となった。犠牲となったのは、身体的に労働に不向きなすべての収容者、すなわち子ども、妊婦、老人、病人、そして障害者だった。
労働適合者(アウシュヴィッツに移送された収容者のうち平均して約二〇%)は、過酷な環境に置かれた。強制労働は数ある殺害方法のうちの一つに過ぎなかったが、労働とはまさに緩慢なる死と同義だった。労働配置された収容者の大半は、暴行、衰弱、極度の疲労、そして非人道的な生活環境に耐えかねて、平均して三ヵ月から四ヵ月後には命を落とした。
映画『関心領域』(2023年)でも描かれていたが、壁の向こうで行われていた残虐行為を「非関心領域」として、平和な町で穏やかな日常生活を営み続けている人々がいた。もしナチスが戦勝国となり、1945年以降もそれが続けられていたとしたら、人々はその欺瞞に満ちた生活環境に耐えられたのだろうか? 現在の我々も、そんな「非関心」対象から目を背けて暮らしていないだろうか?
そもそもアウシュヴィッツ周辺の住民は、収容所で実際にどんな行為が行われていたのか知る者は少なかった、という声もある。1939年にドイツからアメリカに渡った女優マレーネ・ディートリッヒは「そんなわけないでしょう」と一蹴したが、あえて目を背けること、沈黙を守ることも人間の防衛機制としてありうると、いまの我々ならハッキリとわかるだろう。それが現実からは程遠くても。
アウシュヴィッツ市内の一般住民の間では、断片的な情報、噂、そして憶測が飛び交っていた。焼けた肉の鼻を衝くような悪臭は耐えられないほどに広まり、彼らは何か良くない原因があるのではないかと疑っていた。情報を求めれば、心を落ち着かせてくれる説明にたどり着くことはできた。例えば、収容所内の死亡率が高いのは常だし、死体は火葬せざるをえない、といった説明だ。
もちろん、どことなく漂う恐怖心も口をつぐむ一因となっていた。(中略)無関心も広く見られたが、それがどの程度だったのかは不明である。いずれにせよ、抗議の声が上がることはなく、むしろ「何もしないこと」が支配的になっていた。
アウシュヴィッツでは、ヨーロッパ各地からのユダヤ人移送数は日に日に増加していった。ユダヤの人びとは絶滅作戦開始前は収容者全体のごく一部に過ぎなかったが、今や最大グループとなった。こうして移送されたユダヤの人びとは、もはや登録や番号の付与もされず、選別された直後に殺害されるようになったのである。
西ヨーロッパからの移送に続いて、ドイツと同盟関係にあり、移送に同意したクロアチア、ノルウェー、そして後にイタリアとハンガリーといった国々からのユダヤ移送が実行された。一九四二年から一九四三年にかけて、さらに他の国や地域が移送元に加わる。つまり、ユーゴスラヴィア、ギリシャ、フランス南部である。
私たちは本書を読みながら、2026年現在、ガザ地区で起きていることも思い浮かべずにいられない。人類の「終わりなき負のサイクル」といったフレーズが、自然と思い浮かぶ。だが、権力者でもなく、誇大妄想狂でもない我々は、そんなものにはできるかぎり歯向うべきだ、と決意を新たにさせる一冊でもある。







