筆者が属する世代は、元来、日本の「世界史」及びその世界史像に対しては強い関心を持たざるを得ない環境の下で過ごしてきた。というのも、戦中派の最後に当たる私たちの世代は否応なしに世界史像の転換に立ち会わされた世代だからである。
(+『日本略史』1875〈明治8〉)
まず諸普遍史すべてに共通する内容を挙げてみよう。創世記によって天地とアダム、イブの創造から人類史を始めている。そしてノアの大洪水、バベルの塔の事件と人類の拡散(=民族の発生)、アブラハム以後のユダヤ人の歴史を記述する。その後は、ダニエル書に基づいて、地上の国の世界を支配する四つの世界帝国の時代が続く。第四の帝国の滅亡は人類史の終末を意味し、最後の審判がおこなわれるとするものである。
人類学、考古学の発展により人類史が未開・野蛮な先史時代と文字資料が残されている文明・国家成立後の歴史時代とに区分され、歴史学の対象が文明・国家の成立以後とされるようになる。ヒエログリフ、楔形文字の解読により、エジプト史、アッシリア史も文字記録に基づいて記述される時代に移る。さらには、人類史が、理性的存在である人間が展開する人間精神=文化の進歩の過程とされるようになり(進歩史観)、終末論と結合していた四世界帝国論も否定されていく。
教科書の内容に戸惑ったのは漱石だけではなかった。大正デモクラシー期のジャーナリスト、長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)もこんな不平を漏らしている。
長谷川如是閑もこれで英語を学び、「パーレーの万国史というのは、そのころどこの中学でも使っていた。すこぶる古い型の、はじめの方は旧約聖書のぬき書きのような相当分厚の本」だったと回想している(長谷川如是閑「ある心の自叙伝」:294)。
「東洋史」及び「東洋史」研究には、それが提起された時点から、これまでの万国史と違って「東洋開化の先導者」たる位置の自任と、ロシア、イギリス等西欧諸国の「後輩」として、日本が東洋の「大きな国を支配する」時に備えておこなう研究という性格も与えられていたのである。
また、日清戦争後、日本のナショナリズムは皇国主義を柱とする国粋主義を高唱するようになり、西洋的価値観に対する挑戦等も主張するようになってもいく。そしてこの動きはまた、外国史教科書の世界でもその「アジアの盟主」型への転換をもたらすことになる。
このように、日清戦争後、とりわけ日露戦争以後は、どの教科書も、世界の強国の一員になったと記述するようになる。また韓国併合などほかの日本の対外進出に関しても共通して肯定的評価を下し、日本がアジアにおける指導的位置を獲得したと記述して「アジアの盟主」型教科書へと転化していくのである。
そんな時代の不穏な変化を感じさせる部分以外にも、本書の見どころは多い。たとえば「ピューリタン革命」「護国卿」「恐怖政治」など、世界史の授業で学んだ単語が各時代でこんなにも違ったのか、というディテールの変遷なども面白い。私たちが受けてきた「歴史教育」は、実はまだ生まれて間もない知識なのだと教えてくれる。
実は近年、2018年の学習指導要綱に「ある重要な変革」が訪れていたことに、驚きを覚える読者もいるはずだ。つまり、私たちが受けてきた教育も、いまや「過去の歴史」の一部となりつつあるのだ。教育は、意外と国家や社会情勢の影響を受けるものである、という事実を突きつけられる。
たとえば、かつての日本のように「国家に都合のいい」歪曲した世界観を、学校教育の段階から国民に植えつけることは可能なのか。高度に情報化された現代社会においては、マトモに考えれば不可能な話だと思えるだろう。だが、過去の夢に捕らわれて同じことを繰り返す権力者は、必ずいる。だから私たちは本書も含め、多くの本を手に取り、その過ちを何度でも振り返っておくべきなのではないだろうか。







