正論を人質にする搾取と強奪の現在
さて、あなたの抱くエコロジカルな風景とは、どんな風景だろう? サステナブルな生活とは、どんな生活だろう?
本書を紹介するのに困った。「ここ重要!」と貼った付箋が多すぎる。
それから、頭から読み始めると、ムカムカが収まらない。歯に衣着せない著者の文体もあるけれど、次々と登場する「エコ」とか「サステナブル」というワードでぼろ儲けしているヤツらが“いけ好かない”。
ヴィーガン、オーガニック、デトックス……、何百キロ離れた産地から二酸化炭素を撒き散らしながら運んだ素材を、富裕層相手に売りさばく商売人たち(いわゆるベンチャー・ビジネスの人たち)。
服を購入(もしくはわずかな寄付)で、貧困国に1本の木を植える活動をする慈善団体。その木が土地の植生を破壊し、世界中で「幻影の森林」が発生している事実。さらには、こうした実在しない森林が「カーボンクレジット」に認定され、炭素輩出の相殺として企業に売られ、企業は「環境にやさしい」とアピールする。
再生可能エネルギーのビジネスは、石油やガスの巨大企業の資本投下により支えられている……。
サステナビリティとは「未来の世代のニーズを満たす能力を弱めることなく、現在の世代のニーズを満たすこと」だ。この考え方は正しいし、尊重されなくてはいけない。「戦争反対」「愛こそすべて」、そうした誰もが共有する倫理的な正しさに「サステナビリティ」も並ぶ。しかし、その倫理的正しさが巧妙に金を生むシステムにすり替えられ、臆面もなくアピールされ、新たな問題を生み出しているとしたら。“映え”のために、低所得者層が住む地を追い立てられ、効率や革新性という名のもとに労働者は低賃金に喘ぎ、コストカットの名の下、容赦なく職を追われる。本書の帯に「すべて超富裕層が潤うグリーンビジネスだった!」とあるが、その巧妙さには唖然とするばかりだ。
キラキラに騙されない
サステナビリティ・クラス
高学歴で可処分所得と意識が高い「いい人」たち。
エコや倫理的正しさをSNSでアピールし、
「環境」を意識した高額商品を買う余裕がある中産階級。
正直なことをいえば、本書が激しく問題を追及すればするほど、ちょっと“引く自分”がいた。あまりに夢がないから。巨大な資本を動かす人たちの言うことはキラキラしている。脱炭素、スマートシティ、EV、未来を描くキーワードが、本書を読むとどんどん色褪せていく。
彼らは「グリーン成長」やら「再生革命」やら「スマートシティ」やら、すべてを約束していながら、自らのために富を蓄えるだけで、その結果、私腹を肥やしながら罪の意識を消そうとしている。たとえグリーンでスマートな新しい都市であっても、所得の低い人や人種差別を受けている人、恵まれない人、能力が低い人が住民になれない都市がエコロジカルなわけがない。
そんな状況に対して、私たちは何ができるのか? 本書の第8章「未来を取り戻す」で、様々な事例を引いて、以下に行動すべきか紹介されている。きっとあなたは「本当にそれで巨大な資本家からサステナビリティを取り返すことができるのか?」と思うだろう。私もそう思った。そんな不安を著者は、こんな言葉で後押しする。
「私たちは資本主義の中に生きている。その力は逃れがたいものに思える。だが、王権神授説もかつてはそうだった。人間が作った力は、人間によって抗され、変えられるものなのだ」
著者は「想像力と可能性の組み合わせは、エコロジカルな行動にとって最も重要な要素のひとつだ」と説く。
エコロジカルな想像力とは、今あるシステムを理解したうえで、そこに介入し、——むしろ「手を加えてみる」といった感覚で——ビジョンを構築することだ。ひとつ手を加えると、さらに可能性が増える。そして可能性が増えるほど、同じ未来を思い描く仲間たちが加わるチャンスも増えていく。(中略)皆の可能性を開く介入を重ねていけば、きっとその旅には、多くの仲間が——人間も、人間以外の存在も含めて——合流してくれるだろう。
欲と偽善のサステナビリティ 「倫理的正しさ」がつくる新たな階級社会
著 : ヴィジェイ・コリンジヴァディ
著 : アーロン・ヴァンシントジャン
訳 : 保科 京子








