令和の世になって賞賛を受け続ける徳仁天皇ご一家だが、不遇を極めるその暗黒の時代は、実は「人格否定発言」の後にやってきた。その意味では、発言によって雅子皇太子妃を巡る困難な状況を打破しようとした徳仁皇太子の思惑は、失敗した。
平成・令和の天皇家というテーマを描くとき、避けては通れないのが雅子皇太子妃の歩んだ苦難の日々だ。この国の一般社会においても、「家庭と仕事を両立させる現代女性」の生きにくさは誰もが体感し、あるいは目撃したことのある問題だろう。まして、旧時代の象徴のような天皇家に入り、かなり早い時代から(といっても30年ちょっとしか経たないのだが)その実践を試みた元外交官女性が、内からも外からもバッシングにさらされることになったのは、日本の悲劇そのものに見える。そこには当時、「精力的な外交活動」と「享楽的な海外旅行」をたやすく混同しやすかったマスコミや大衆自身の意識の古さも含まれる気がする。読みながら自戒の念に胸の痛くなる読者も少なくないはずだ。
いまでこそ、女性が仕事を続け、キャリアを積みながら、結婚、出産、育児を両立させるのが当たり前のように思われるが、当時、「キャリアウーマンの先駆け」のように扱われた世代の女性たちは、一種悲壮な覚悟を持って仕事をしていただろう。「男性並み」であることを求められながら仕事でキャリアを積み上げるには、結婚はできないかもしれない。でも、できるなら結婚もして、仕事と結婚生活を両立させたい。「小和田雅子さん」は当時そう思っていたのであり、やがてそれが「皇室による国際親善」と、「皇太子妃として家庭を持つこと」の両立を目指すことになっていく。
外国に関わることを、自らの存在意義のように感じていたであろう元外交官の女性にとって、外国訪問がかなわず、出産だけを求められ続ける現実には、途方もない失望と悲しみが伴ったと思う。また、海外を巡る美智子皇太子妃の活躍ぶりは、皇室入りする際の「皇太子妃のモデル」として雅子皇太子妃の脳裏に色濃く存在していたと考えるのが妥当だ。結婚を申し込んだ徳仁皇太子も、母のそうした活動を「外交官の仕事に代わる重要な役割」として皇室入りの重要な説得材料にしていたと思われる。
ところが、自分はそうではなかった。男児出産を果たさない限り、その向こうにあるはずの、あるべき皇太子妃の姿、あるべき自分の姿にたどり着けない。雅子皇太子妃が自分の役割と存在意義を見失い、焦りと絶望の淵に追い込まれたであろうことは想像に難くない
「人格否定発言」からは数年後のことだったが、私は雅子皇太子妃の詳しい病状を知りうる立場にいた東宮職幹部に、病気から回復しない雅子皇太子妃の抱えるストレスの因子とは結局何なのかとしつこく問うたことがある。重い口をなかなか開こうとしないまま二年が過ぎ、ついに私は「ストレス因子は天皇と皇后そのものである」との証言を引き出した。
もちろん、この人物の見立てが正しいのかどうかは断定できない。
加えて「皇族」にはつきものの、生活環境の閉鎖性という問題もある。日常生活と政治的監視体制が密着したような環境は、いかにも健康によくない。
私が耳にした証言の一つは、東宮御所での行動や内密の話はどういうわけか明仁天皇夫妻側に筒抜けになっており、東宮御所内部では安心して話ができない、というものだった。誰がどんな理由でそのような仕掛けを作ったのかは知らないが、家の中にいながらも警戒心が解けないのであれば、安心できる友人と外で会いたくなるのは仕方がない。当時、人を遠ざけるようにして私的な外食を繰り返したのはこのためだったのかと納得した。
また、似たような話として、皇太子夫妻が東宮御所に人を招いた際のことを聞いたこともある。関心のある分野などで、夫妻が人を招いて懇談すると、どういうわけか、しばらくして同じ人物が今度は明仁天皇夫妻にも呼ばれてしまうのだという。
以下は、徳仁天皇夫妻の愛娘・愛子内親王が、2024年に単独地方公務として佐賀県を訪れた際の逸話。さりげない言葉、そこに潜む等身大の共感性に、新風を感じさせる。
愛子内親王は和紙の工房を訪れて、冷たい水に手を浸し、和紙を漉く体験をした。隣に立って補助役をしたのは二五歳の若い女性の職人で、年が近いこともあって会話が弾み、愛子内親王は女性にこんなふうに話しかけたという。
「水の冷たさとか、流れる音とか、紙の感触とか、そういうのが新鮮で心地いいですね」
聞いてみると、女性は「水が冷たくて大変ですね」といった言葉をかけられるのではないかと予想していたらしい。私の経験に照らしても、実際に皇族の言葉とはそういったものが多いし、その意味でこの女性は的確な予想をしていたと思う。
しかし、愛子内親王は、そのようには言わなかった。(中略)これはきわめて「個人的な」行為だったと思う。
女性は「私はここで働くのがすごく楽しいんです。だから、愛子さまにそういうところを分かっていただいて、そうなんです! そうなんです! って、嬉しくなってしまいました。(中略)」と、嬉しそうに話した。
国民の一人として言うならば、私は「つくられた家族」など見たくもないし、それを演出するために「個」としての人間性を犠牲にするようなことが行われてきたのならば、そんなものはもうやめてほしい。私たち国民が見たいのは、ありもしない理想のファミリーを演じようとする家族のフィクションではなく、現に幸せでいてくれる家族の姿だ。現にある幸せを象徴する姿だ。







