PICK UP

2025.08.06

レビュー

New

死なないと、帰れない島──硫黄島。島民たちはなぜ今も故郷に帰れないのか?

多くの日本人が知らないことがある。そのひとつが、硫黄島の歴史と現状だ。かつて第2次世界大戦の激戦地となり、日米両軍に膨大な戦死者の山を築き上げた史実は、ほとんどの人が学校の授業で学んだはずだ。しかし、この島への一般人の自由な上陸がいまだに許されておらず、旧島民でさえも容易に帰ることができないという現実は、おそらくあまり知られていない。
全国に離散した島民と子孫はいまだに帰島が認められていない。多くの日本人はその事実を知らない。日本固有の領土なのに、旧島民が自由に渡航できないのは、北方領土だけではないのだ。現在、居住を認められているのは、島内の基地に勤務する自衛官とその関係者だけだ。人数は公表されていない。
第2次世界大戦中に全島疎開となった島で、21世紀になった現在も戦時疎開命令が解除されていないのは、世界を見渡しても硫黄島だけとされる。
著者は北海道新聞の記者で、戦争などの歴史調査・取材・発信をライフワークとする酒井聡平。硫黄島には、戦没者遺骨収集団のボランティアとして参加するなど、計4回渡島。2023年に発表した著書『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』も記憶に新しい。

本書では、激戦地として取り上げられることの多かった硫黄島を「旧島民の視点」から捉え直し、新たな角度から硫黄島の「知られざる真実」を浮かび上がらせる。ボランティア活動を通して旧島民とその親族と交流し、地道な取材を重ねた著者だからこそ実現できた内容だろう。そこに描かれるのは、愛する故郷を失った人々の哀歓、あまりに大きな傷跡を残した戦争の記憶、そして「なぜ帰れないのか?」という最大の謎を巡るミステリーである。

硫黄島と聞くと、おそらく大半の人は、映画『硫黄島からの手紙』(2006)などで描かれた「荒涼たる丘陵地が広がる火山島」のイメージを想像するかもしれない。だが、戦争が始まる前までは、緑豊かな楽園のような島だったという。
土が良いのか、気候が良いのか、どの果樹もよく実った。コメ以外は何でも作れるといわれるほど農業に適した島だった。
著者が取材した旧島民たちは、幼いころに目にした島での生活を活き活きと語る。島に河川はなかったが、水の確保は雨水と貯水槽で賄い、約1000人の島民が十分に暮らしていける環境だった。豊富な図版も本書の魅力のひとつだが、なかでもひときわ鮮烈な印象を与えるのが、戦前に撮影されたという摺鉢山(すりばちやま)山頂からの島の全景写真である。こんなに豊かな自然が広がる島だったのか、と驚かされる。
この写真の正確な撮影時期は分からないというが、少なくとも1933年以前、海軍の防衛隊が飛行場を敷設するよりも前の光景だという。その後、1941年に太平洋戦争が始まり、戦況が悪化した1944年には陸軍も上陸。最終的には2万3000人の兵士が島を埋め尽くした。

同年6月、米軍が最初の空襲を行い、島はついに戦場と化す。翌7月には島民疎開が慌ただしく始まり、翌年2月に米軍が本格的に上陸。それから終戦に至るまで炎と煙と銃弾に灼かれ続けた島は、旧島民でさえも面影を見出せないほどに姿形を変えていった。
陸海軍2万3000人を率いた最高指揮官・栗林忠道中将が目指したのは防衛戦ではなかった。一日でも長く敵の本土侵攻を食い止めるための持久戦だった。そのため、守備隊の兵士たちは地下壕に潜みながら、ゲリラ戦を開始した。川のない渇水状態の硫黄島での持久戦。壕の中は火山活動による地熱で、まるで蒸し風呂のようだった。兵士たちは、喉の渇きを耐えながら戦うという、“死よりも苦しい生”を強いられた。
この地獄の戦場に“軍属”として駆り出されたのが、疎開船に乗せられた女性と子供を除く島民(16歳以上の男子全員)、そして朝鮮人労働者だった。彼らは疲弊しきった兵士たちとともに戦闘に耐え、大半が悲愴な最期を迎えた。わずかに生き残った者の証言には、どんな綺麗事も美談も存在しない。そして追い立てられるように疎開し、別れた家族や友人と再会できないまま戦後社会を生きた旧島民の言葉も、生々しく痛ましい。

そのうちのひとり、疎開当時は14歳の少年だった山下賢二氏に、著者がインタビューする場面が強く印象に残る。このとき取材はすでに3回目で、著者は以前に訊いた「港で友人たちと別れた話」を確認のために繰り返す。
「あの、船に乗るときにね、お友達(奥山駿)が『賢二、お前はいいな。船に乗れて』って……」。私の質問が最後まで終わる前に、賢二は両手で両目を覆い、まるで別人のような大声で叫んだ。
「その話はやめてくれえ!」
さらに10秒ほど沈黙を挟んで、今度はやや小さくした涙声で「その話はやめてくれ」と懇願するように言った。
「あの日」から80年もの歳月が過ぎても、戦争が与えた傷は人を苦しめ続ける。世界中の戦争体験者にとっての真実を、本書はまざまざと教えてくれる。
「硫黄島の海岸でつらい別れがあって、仲間たちが今も眠ってるじゃないですか。あえてまたそこに自分が戻っていけば、毎日そういう悲しみを思い出しながら暮らすことになるじゃないですか。それって、つらさしかないですよね」
私は思い出した。1年半前の前回のインタビューの最後に賢二が言った言葉を。〈行きたいけどね……、また行きたいと思うけれどもなかなかね〉。豊かで美しかった故郷に恋い焦がれる一方、思い出せば慟哭する悲劇が刻まれた島の土を踏みたくない。そんなジレンマを賢二は語ったのではなかったか。
硫黄島に生きた人々の生活と歴史を掘り下げるうち、著者はやがて、旧島民が「島に帰れない理由」に疑問を持ち始める。政府主導の遺骨収集作業など、一般人の島への訪問の機会は限られており、活動範囲やスケジュールなどにも制限がある。「環境が激変したあとの硫黄島は日常生活に適さないから」「その再開発の手間を政府は惜しんでいるから」といった説がまことしやかに語られたりもするが、帰郷を望む旧島民にとっては説得力のある答えではない。著者にとっても同様だ。

ここから本書は、骨太なポリティカルスリラーの様相を呈していく。現役新聞記者らしい行動力と食らいつきの強度で、真実に迫っていく展開は非常にスリリングであり、読み応え満点だ。もちろんこれはフィクションではないので、我々の生活に直結した政治問題であることも意識せずにいられない。
そもそも戦後、最初に島民たちの帰島を禁止したのは誰なのか。
その答えは、米国政府が残した公文書の中に、明確に記されていた。
1945年11月23日、国務・陸軍・海軍三省調整委員会において承認された、同年11月13日付「SWNCC 214/1」。そこには、こう書かれていた。
〈小笠原および火山列島における旧島民の帰島を禁ずる〉
決めたのは日本の戦前の軍部でも戦後の政府でもない。明確に、「アメリカ」だった。
これは「最初の帰島禁止方針」であって、すべての答えではない。だが、重要なディテールの一部ではある。ほかにも本書にはさまざまなキーワードが登場する――「自衛隊ファースト」「小笠原議事録」「自力帰島計画」「硫黄島=米軍記念碑説」「シーレーン構想」などなど。詳しくはぜひ本書にあたってほしい。知らなかったこと(あるいは、なるべく知らないようにされてきたこと)に数多く出会えるはずだ。

帰島を切望しながらも果たされなかった旧島民の苦渋の道のり、そして周到に回避と拒否を繰り返しながら帰島不可の方針を固めてきた国の思惑。このふたつの軌跡を、本書はつぶさに追っていく。いつしか浮かびあがるのは、硫黄島が今も昔も“軍事的要衝”であり続けているという不気味な現実。そして、一般市民の感情がないがしろにされ続けているという腹立たしい事実だ。その“冷酷な決定”は、かつて「楽園」だったはずの島の自然をも裏切っているのではないかと思わせる。ずっしりした読後感を与えるとともに、硫黄島の従来のイメージも爽やかに一新させてくれる重量級の1冊である。

レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

こちらもおすすめ

おすすめの記事

2025.07.31

編集者のおすすめ

いまだに戦時疎開命令が解除されていない島。今なお続く硫黄島の悲哀を描く

  • ノンフィクション
  • 戦争
  • 担当編集者

2024.10.25

レビュー

われわれは国家の暴走を止められるのか? いま胸に刻むべき戦争の真実とは?

  • 戦争・軍事
  • 歴史
  • 草野真一

2023.08.15

レビュー

硫黄島での戦没者1万人がいまだ行方不明の謎。新聞記者が執念でたどり着いた真実。

  • コラム
  • 嶋津善之

最新情報を受け取る

講談社製品の情報をSNSでも発信中

コミックの最新情報をGET

書籍の最新情報をGET