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2025.07.18

レビュー

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飲酒・喫煙が20歳からになった理由とは? 大人になるのは何歳?……基準値の迷宮に潜むからくり!

世の中の意思決定のしくみを探る

数字には説得力がある。皿から落ちた食べ物は「ちょっとくらい気にするな」と言われても拾いたくはならないが、「3秒以内なら大丈夫」と聞けば「まあいいか」と納得してしまう。なんとなく「治安が悪い」より「3ヵ月の間このエリアで起きた傷害は5件、盗難は10件」と言われたほうが気が引き締まる。
しかし、「4秒たったらもう食べられない」わけでも「傷害事件は4件までなら安心」なわけでもない。基準の裏側には必ず根拠があるはずなのだ。

『世界は基準値でできている 未知のリスクにどう向き合うか』は、世の中のさまざまな“基準値”について、その成り立ちとからくりを解説する1冊。

コロナ禍以降、「基準値以下だから安全です」という言葉を何度となく耳にした。たとえば感染者数、PM2.5、食品の農薬、放射線量……私たちを一喜一憂させたあの数字はどうやって決まっていたのだろうか。そんな答えを求めて本書を読むなかで、思わず口をつく言葉がある。
「えっ、そういう感じで決めてるの?」

「濃厚接触“15分”の根拠は?」「道頓堀とセーヌ川、どっちが汚い?」「PFAS基準値を超えた水を飲んだらどうなる?」「プライバシーポリシーに同意すると何が起きる?」

深く考えることなく従っていた基準値にはそれぞれに、設定にいたるまでの葛藤、価値観のせめぎあいがあった。

本書は「基準値オタク」を自称する研究者たちが、安全を求めて奮闘する人々の営みに迫った『基準値のからくり』(2014年、ブルーバックス)に続くもの。
「そこにあるリスク」にどう向き合うかを考えるきっかけとなり、科学的知見と人間社会の調和の架け橋となる「レギュラトリーサイエンス」の楽しさにも触れさせてくれる1冊だ。

「生きたい世界」を形に

基準値とは「これ以上/以下の数値であれば安心」というボーダーラインであり、それを踏み越えなければ大丈夫。私はそんなふうに考えていた。しかし、
基準値を決めるということは「許容できないリスク」を、具体的な数字に落とし込むということである。だから、基準値の根拠を知ることで「安全」という抽象的な概念について、定量的に議論できるようになるのだ。
このようにして基準値を定めることは「世界に対する線の引き方を考える」ことであり、自分たちが「生きていきたい世界」について考えることにつながるという。基準値は機械的にドライに決まるもの……そんなイメージは大きく裏切られた。

この本はタイムリーな題材を例に挙げ、誰にでも分かるように基準値を決めるための考え方、プロセスを説明しているところがとてもいい。迷走する様子が面白いもの、謎解きのようなもの、格闘の跡が見えるもの……基準値の成り立ちはどれも思いのほかドラマチックだ。

キャリアやライフスタイルにおける男女差は小さくなり、性的マイノリティの人々への認知も深まるなか、「性」についても多様性を尊重する動きが広まっている。性に関する線引きもまた、人権に関する「安全」のひとつ……ということが語られるのが第1章「男と女の基準値」だ。

2021年の東京オリンピックにはトランスジェンダー女性が女子選手として出場した。これは生まれ持った体格を考えればほかの女子選手には不公平が生じ、区別のしかたによっては性的マイノリティの人々への差別にもなりえる問題でもある。スポーツ競技における男女の線引きはどのように行われてきたのか? 世界的な関心を集めつつも、一筋縄ではいかない「男/女」の線引きの難しさを見ることができる。
基準というものは、考えるという行為を遠ざけてしまう格好の道具である
前作から引用されているこの言葉がぴったりなのが、私たちが散々振り回されたコロナ禍における基準値にまつわるあれこれだ。「ソーシャルディスタンス」の距離が国によって違うのはなぜか? 「14分以内に給食を完食しなくてはいけない理由」とは?
かつての迷走ぶりを思い出して笑ってしまうが、基準値には、人をこうした思考停止に陥らせる「罠」があるのだと、コロナ禍を経験した人なら身にしみてわかるのではないだろうか。

どこか宗教に似たものを感じるのが食の基準だ。2023年に大きな反響を生んだコオロギパンが記憶に新しい。新しい食品が食品としての基準は満たしていても「本当に食べて大丈夫?」「なんだかイヤ」という感情がそれに先行することもある。私たちにはそれぞれに「食べる理由」「食べない理由」があり、「食べられるもの」「食べたいもの」を含めて考える食に関する基準は、多様化が進む中でより「心の安全」の影響が大きくなっていくだろう。

基準値を「どんな世界で生きていきたいか」を考え抜いた履歴とすれば「価値観は揺らぐから、この数字も実は完璧ではないかもしれない。でも全く無意味でもない」と思える。基準値に一喜一憂することなく、かといって無視することもなく、適度な距離を保って向き合えるだろう。
数字に踊らされることなく、でも、軽視もしない。本書を通じて、そんなバランス感覚を手に入れられるはずだ。

世界は基準値でできている 未知のリスクにどう向き合うか

著 : 永井 孝志
著 : 村上 道夫
著 : 小野 恭子
著 : 岸本 充生

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レビュアー

中野亜希

ガジェットと犬と編み物が好きなライター。読書は旅だと思ってます。

X(旧twitter):@752019

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