ぼくは昔から“普通(ふつう)”というものに憧(あこが)れて生きてきて、普通になりたかったし、普通に生きたかった。
著者はこの本で、波乱万丈と言って差し支えない自らの体験を率直に綴る。そして、今まさに同じような問題に直面している少年少女、あるいはトランスジェンダーへの理解を深めたいと思っている読者に対して、つとめてやさしく平易な言葉で語りかける。本書の対象年齢が「小学上級・中学から」となっているのも、できるだけ早く若い読者の助けになれるように、という願いからだろう。
漢字にはルビがふられ、専門用語もわかりやすく解説されるので、幅広い層に安心して読んでいただきたい。もちろん、先述のように狭いイメージの「普通」に囚われてしまっている人々も含まれる。
トランスジェンダーとは何か。そこにはどんな悩みがあるのか。そして「それ以外の人」が何をわかっていないのか。そういった基本的な疑問も、この本は明らかにしていく。読者は多くの知識や発見をここから得られるのではないだろうか。
今も男性器がほしいとは思っていないし、つけたいとも思わない。
こういうところは個人差(こじんさ)が大きいのだと思う。
体を手術(しゅじゅつ)してでも完全に反対の性になりたい人もいれば、そこまで求めていない人もいて、自分は何者なのか、ということにも、本来の性にどれだけ近づきたいかにも、グラデーションがある。
だからそういうところは十把一絡(じっぱひとから)げにして、あなたたちはこうなんでしょう? と決めつけてほしくないと思う。
大事なのは本人がどう感じ、どうしたいと思うか、なんだから。
ぼくはいわゆる“男の子が好きそうなもの”が好きなタイプの男の子ではなかったから、余計(よけい)にわかりにくくなったのだと思う。ヒーローにも電車にもまったく興味(きょうみ)がなかったのだから。
だから自分も、親やまわりの大人も違和感(いわかん)を持たなかったのだ。
当時の自分の気持ちを思い出すと、自分でも自分のやってることがよくわかってなくて、それでも変だと思われない範囲(はんい)で、精(せい)いっぱい男の子をしていたような気がする。
登校時間になってもぼくが部屋から出てこないので、見に来た母に「学校に行きたくない。」と何度も繰(く)り返(かえ)した。
父もやってきて、どうしたんだと聞かれたけど、「学校に行きたくない。」としか言えなかった。自分の気持ちや状態(じょうたい)を説明できなかった。
どうして行きたくないのかを尋(たず)ねられ続けたのだが、自分でもよくわからないものを答えられるわけがない。どうにか言えたのが「精神科(せいしんか)に行きたい。」というセリフだった。
“ちゃんとした女の子”になれば、ちゃんと大人になれる……。
ちゃんと大人になって、ちゃんと仕事について、ちゃんと子どもを産んで、ちゃんと、ちゃんと……。
自分がなんなのかわかりかけたことで逆に混乱し、中三のとき精神(せいしん)が不安定になった。
そして十五歳(さい)のとき、自殺未遂(じさつみすい)を起こした。きっかけは本当にささいなことだった。
というか、きっかけはなかったと言ってもいい。
この出来事を通して、“自分は性同一性障害(せいどういつせいしょうがい)かもしれない”と口に出したことで、今まで持っていた数々の疑念(ぎねん)が確信(かくしん)に変わりはじめたのだ。
心のなかでぼんやり思っているだけなら、なんとか押(お)し殺(ころ)すことができていたけど、一度音にして外に出してしまうと、なんというか、固体になった、「性同一性障害」という文字にガンと殴(なぐ)られたようだった。
するとその途端(とたん)、今までの大小さまざまな違和感(いわかん)が一気に襲(おそ)いかかってきた。
(中略)
こういうことの全部が全部、自分は女の子じゃないから、女の子になりたくなかったからだ、ということに気づいたのだ。
ここで、ぼくは体の性は女で、性自認は男、性的指向は男性だとわかって自分を明確(めいかく)に定義(ていぎ)できるようになり、とてもすっきりした。
それがハッキリしたことで今までの「体は女で男性(だんせい)が好きだけど、男として男性を好きになるから同性愛者になるってなんなんだ!」という頭のなかがこんがらがる謎(なぞ)みたいなものが解決した。
トランスと同性愛は両立するのだ!
(中略)
ぼくは男として男性に愛されたい。それがおかしいことではないとわかって嬉(うれ)しかった。
普通について、生きやすい状態(じょうたい)について、長い間自分なりにいろいろ考えた結果ベストな状態が今のぼくだからこれでいい。
人にはそれぞれベストな状態があると思う。
そのままがいい人、見た目だけ変えられればいい人、いらないものをなくしたい人。いろんな人がいて、みんなそれでいい。そう思えるようになった。