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2025.04.10

レビュー

絢爛たる古代オリエントの世界! 5000年前のシュメル人の驚くべき知性から日常まで。

「紀元前3500年」という言葉に途方もない距離を感じる人は、その時代の西アジア世界に都市国家が生まれ、現代にも通じる豊かな文化や生活様式が築かれていたという史実に驚くかもしれない。彼らはティグリス河とユーフラテス河に挟まれたメソポタミアの最南端(大部分は現在のイラクにあたる)に広がる、シュメル地方と呼ばれた肥沃な土地に暮らしていた。本書はそのシュメル人の知られざる文明と文化、日常と生活に迫った1冊である。ちなみに、近年話題となった高野秀行のノンフィクション『イラク水滸伝』(文藝春秋)の舞台となった水郷地帯アフワールも、この近辺である。

著者は『シュメル 人類最古の文明』(中公新書)、『楔形文字がむすぶ古代オリエント都市の旅』(NHK出版)などの著書がある、古代オリエント/シュメル学を専門とする歴史学者の小林登志子。本書は2007年刊行の『五〇〇〇年前の日常 シュメル人たちの物語』(新潮選書)の文庫化となる。いきなりだが、この本の要点を記した著者によるあとがきを引用させてもらおう。
特異な文明社会を形成したエジプトとちがって、多民族共存型の普遍的な文明社会をシュメル人が作った時に、その後の文明社会で起きるであろうことは起きてしまっていた。戦争、災害、教育問題などはすべてシュメル人が最初に経験し、特筆すべきはそのことを書きとめておいてくれたことで、だからこそ二一世紀の日本人読者に紹介できるのである。シュメル人が歴史の始まりにいたことは喜ぶべきことであって、後代の人間はシュメル人に大いに学ぶことができる。
こう聞くと、私たち現代人は興味をそそられずにはいられないのではないだろうか。

古拙文字(こせつもじ)の誕生に始まり、やがて楔形文字に進化した文字の発達によって、現存する史料(遺跡や粘土板など)がシュメル人について伝えるものは非常に多い。歴代の都市国家の王とその家族の暮らし、戦乱に明け暮れた国々の栄枯盛衰、役所や学校関係の資料、さらに交易記録まで、かなり細かいところまで読み取ることができる。さすがに庶民の日常生活まではわからないというが、少なくともその時代に生きた人間の日常はうかがい知ることができる。

その資料性の高さを如実に伝えるのが、現在はパリのルーブル美術館にハンムラビ法典などとともに展示されているという「奉納額」だ。当時は貴重だった石板に、時の国王とその家族、忠臣たちの肖像などを刻み、神殿に掲げたという奉納額は、日本の絵馬にも似たものだったという。本書にはこれらの図版資料も数多く紹介され、目に楽しい。
「奉納額」の図柄には祭儀の場面などが描かれるが、ウルナンシェ王は神々のために神殿を建立し、饗宴を開く、晴れやかな自らの姿とともに子供たちと寵臣たちの姿を刻んだ。約四五〇〇年昔に生きていた、個々の名前がわかる肖像をこれほど明白に刻んだ例はほかにはない。
誰が見てもわかる(つまり神にも、後世の人間にも伝わる)具体的な絵と、文字による注釈のセットで数多くの史料が残されており、その意義をシュメル人はおそらく理解し、意識して書き残していた。

戦争の記録も例外ではない。都市国家の乱立は文化文明も発達させたが、その一方で殺戮(さつりく)と略奪が横行する戦乱の世を生み、皮肉なことに絵師の画力まで育て上げた。
シュメルの絵師は、人物表現などは写実的とはいいがたいが、それでも伝えようと思うことを工夫して正確に表現している。たとえば、「戦争の場面」は下段から中段へ、中段から上段へと時間の流れを追っていくように構成され、下段は異時同図の手法を使って、コマ割り漫画のように一両の戦車が次第に速度を増していく様子を再現している。戦車の下には敵の死骸がころがり、中段右端の捕虜は頭と胸に負傷したようで、波線で流血を表すなど、シュメルの絵師は残酷な場面についても芸が細かい。
血なまぐさい戦乱の日々はやがて「統一国家の夢」を育み、権力への執心も膨らんでいく。しかし、紀元前2004年、他国の侵攻によってシュメルの歴史は呆気なく幕を閉じる。まさに「後代の人間が大いに学ぶ」べきところだろう。

一方で、本書は王家の女性たちの日常にも細かく触れ、それぞれの生活やパーソナリティにも思いを馳せることができる。それを伝える遺物のなかには、現在でもちょっと手元に置いておきたいぐらい魅力的なアイテムもある。
バルナムタルラはすてきな円筒印章を持っていた。「バルナムタルラ、ラガシュ市のエンシ(=王)(である)ルガルアンダのダム(=妻)」と上段右に名前が刻まれている。
印影図しか残っていないが、実物が残っていたとしたら、高さが四・八センチメートル、直径一・二センチメートルの細長い印章であろう。

(中略)
バルナムタルラの印章は印面を珍しいことに三段に分け、図柄は初期王朝時代に「饗宴図」とともに好まれた「動物闘争図」だが、バルナムタルラの好みだったのだろうか、なんともやさしげな「動物闘争図」で、「闘争」というよりも「抱擁」に見えなくもない。
当時、有力者の家に生まれた女性は政略結婚の道具にされ、時には戦乱に巻き込まれて家族とともに非業の死を遂げるケースも少なくなかったという。だが、それでも歴史に名を残す個人として「きちんと生きた」証が残っていることは、いくばくかの勇気を私たちに与えるのではないだろうか。

そんなシュメルの人々が信じていた、独特の信仰や死生観についての記述も興味深い。大神は恐れ多いものとして直接祈願はせず、王たちは個人の守護神=「個人神」なるものを持ち、それらの神は家族にも継承されたという。その基盤には、いわゆる「天国での救済」などを信じない、現世での暮らしを大切にするシュメル人の思想があったといい、むしろ現実的である。
現世利益を願うことは悪いことではない。シュメル人はエジプト人のように実際には誰も見たこともない「あの世」のことを熱心に想像せずに、「この世」のことを大切にした。生きていくことは大変で、戦争があれば、災害もある。保険や年金などの社会保障制度のまったくないシュメル人の生活は明日のことはわからず、不安の連続であっただろう。神々に頼むしかなく、今生きている自分自身のために大神に執り成してくれる「個人神」を考えついたことはシュメル人にとっては安心立命の仕組みとなり、精神面での大きな進歩であった。
しかし、「死後の世界」を信じなかったわけではない。死者に敬意を払う文化も、このころから存在していた。なお、冥界のことをシュメルではクルヌギといい、そこでの食事は埃(ほこり)とされていたそうだ。
シュメル人の「死生観」には地獄がない一方で、天国や極楽もない。となれば、一度だけの生をよく生きると定めざるをえない。「あの世」よりも「この世」を大切に生きた。それでも死者のいく世界は想像されていた。
死者は生者のおこないの善し悪しにかかわらず、死ねば一律にクルヌギに赴き、飲食物に不自由するので、生きている者は死者のために供養する務めがあると考えられていた。
メソポタミアの肥沃な土地は都市国家の礎(いしずえ)となったが、しかし石材や木材など足りないものも少なからずあった。そのため「交易」が発達することになり、「戦争」のモチベーションともなった。ひとつの都市文化論、あるいは戦争論として読んでも本書は興味深い。
メソポタミア南部はユーフラテス河とティグリス河が押し流してきた泥が堆積してできた沖積平野である。肥沃な土壌は大麦などの穀物を作るに適し、またシュメル人は豊かな泥を最大限活用し、煉瓦を作って家を建て、粘土板に記録を残した。
だが、泥だけでは文明社会を維持、発展させることはできない。そのために必要な武器や道具などを作る石や鉱物はシュメル地方にはなかった。樹木にしても宮殿や神殿のような大きな建造物の梁や扉にできる長く太い木材は多くはない。そこで、こうしたものは外国から持って来ざるをえないのである。
本書には時折、著者の辛辣な視線も見え隠れして、そこが味わい深い魅力にもなっている。特に、時の権力者たちが執着した戦争についての記述にはそれが顕著だ。
王碑文は本来王の功業を誇示するもので、負け戦なぞは書かない。ところが、この王碑文は少々様子が違っている。ウルイニムギナは情けないことに自国を守ることができず、王の責務を果たせなかった。そこで、ラガシュ市が滅亡した責任は自分にはなく、ウンマのルガルザゲシ王とその個人神ニサバ女神に罪があるのだと、責任転嫁した「恨み節」を縷々(るる)書き連ねたのがこの王碑文なのである。
また、後世まで語り継がれる英雄譚についても、その発生源を考えると、そこには国家の欲望やエクスキューズが透けて見える、という分析は鋭い。「歴史に学ぶ」ということは、アイロニカルな知性を身につけるということでもある。そうでなければ、自戒や反省や進歩にはつながらない……昨今の反知性主義がもたらした惨状を見れば一目瞭然の事実でもある。
現代の商売は貨幣を支払うことで取引が成立する。過去には物々交換があり、同時に略奪もまた一種の交易であった。ここに英雄が活躍する余地があり、前で話したエンメルカル王やルガルアンダ王とならんで英雄ギルガメシュの軍事遠征による活躍も、木材がほしかったシュメル人が自らの欲望を正当化するための理由づけでもあったようだ。
最後に、シュメル人が残した史料のなかから、「争いの起源」について語っている箇所を引用しよう。ちょっとうまいことを言っているような雰囲気から、旧約聖書の「バベルの塔」の逸話を思い出させる内容に移っていくところが、なかなかスリリングである。
シュメル人は『エンメルカル王とアラッタ市の誕生』の中で、「文字」と「争い」の起源についての考えを披露している。「文字」も「争い」も交易活動とは不可分である。ものの出入りを記録する必要が「文字」を生み、ものへの執着が「争い」になる。
(中略)
また、アラッタの領主の前で唱える「エンキ神の呪い」の中で、エンリル神が支配していた「黄金時代」には人々は一つの言葉で話し、世の中は平穏であったが、エンキ神が言葉を変え、この世に「争い」が生じたという。つまり、シュメル人なりに「争いの起源」を説明しているのである。
先述の『イラク水滸伝』に登場する「湿原のアラブ」の住民は、シュメル人の末裔ともいわれている。おそらく史料に残されていない「庶民」に属した彼らの暮らしぶりにも思いを馳せながら、本書を読み進めるのもまた一興かもしれない。

レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

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