本の表紙を飾るのは、牡牛を刃物で殺す男性という物騒な彫像だが、これがミトラス教のシンボルだった。さらに詳しい周辺情報(神話のディテール)が彫り込まれた遺物も残っている。

Philippa Adrych, Robert Bracey, Dominic Dalglish, Stefanie Lenk, Rachel Wood, Images of Mithra, Oxford: Oxford University Press, 2017,p. 16.
図2b
Reinhold Merkelbach, Mithras, Königstein/Ts: Hain,1984, p. 279.
ミトラ神は、ローマ帝国では太陽神と同一視され、「不敗の太陽神ミトラス(Sol Invictus Mithras)」としばしば呼ばれ、牡牛を殺す独特の姿で彫像や浮彫に表された(図2)。マントを翻して、先の曲がったフリュギア帽子を被ったミトラ神は若々しい神で、片膝をついて牡牛の上に乗り、左手で牡牛の首を引き寄せ、右手でその首に短剣を突き刺している。牡牛から流れ出る血には、犬とヘビがとびかかり、性器にはサソリが取りつく。
しかしその推定される勢力と裏腹に、ミトラス教の実態がよく分かっていない根本的な原因には、史料の問題がある。ミトラス教には、神像や神殿の遺構などを初めとして、考古学的な遺物は豊富に存在している。例えば、「牡牛を殺すミトラス神」だけで七〇〇ほど発見されているのである。しかし一方で、教義を記した文献はほとんど残っていない。教徒自身の手になるものは、奉納物に書かれた碑文が主たるもので、その数は一〇〇〇ほどあるものの、短文であり、情報量は少ない。その他には、敵対していたキリスト教徒や、あるいは逆に共感を抱いていたとおぼしき新プラトン主義の哲学者などによる言及があるが、これらもごくわずかである。
この世に岩から生まれたミトラス神は、まず太陽神と力比べをして勝利し、同盟を結ぶ。その後、アフラ・マズダーが創造した最初の生き物である牡牛を捕らえて洞窟に連れて行き、太陽神の命令を受けて、これを殺害する。
では、ミトラス教はどのようにして一世紀にローマ市で誕生したのだろうか。ミトラス教は、最初期の段階で既に「牡牛を殺すミトラス神」の像や「父」や「ライオン」の位階制度、洞窟状の神殿などを有しており、相当完成された形で姿を現していた。このことは、ミトラス教が、時間をかけて形成されたものではなく、一人の教祖の手によって密儀宗教として一気に創り出されたものであることを想像させる。

Manfred Clauss, Mithras, Kult und Mysterium, Darmstadt: Zabern, 2012, p. 13.
信者の多くを占めていたのは、兵士と奴隷、ないし解放奴隷である。
また、密儀宗教としての特質もなかなか独特である。入信の際には過酷な試練が課されたそうで、そこにも男性的な軍事教練風マゾヒズムや、痩せ我慢を好むマッチョイズムを感じなくもない。
洞窟状の神殿で行われた入信の儀式については、四世紀の教父ナジアンゾスのグレゴリウスがミトラス教の「拷問」としてたびたび言及しているが、六世紀初めの修道士ノンノスによれば、ミトラス教では、八〇もの試練が課された。最初に五〇日間ほどの断食が求められ、これに耐えれば二日間、熱にさらされ、次いで雪のなかに二〇日間入れられ、試練は段階を追って厳しくなっていったという。
おそらく、この神が奴隷や兵士たちに特にアピールした最大の要因は、高等教義とも言える魂の教説ではなく、彼ら自身を彷彿とさせる、孤独と忍従を強いられながらも、仲間と協力して、偉大なことを成し遂げるその神の姿にあったのではないか。実際問題としても、ミトラス教徒は各地で信者組織を形成していた。そのため、仮に家族から引き離されて見知らぬ土地に売り飛ばされても、あるいは異動になっても、そこには同じ哀しみを共有できる仲間がいたことになる。この点も、自らに重ね合わせることのできる神の姿に加えて、ミトラス神の大きな魅力であったに違いない。
ミトラス教は、キリスト教のように宣教師を各地に派遣して、積極的な布教活動を行うようなことはなかったし、その拡大はあくまでも人と人との自然な接触を介するものであった。男性にしか入信を認めていなかったミトラス教は、キリスト教とは異なり、そもそも宗教世界の制覇などは目指していなかったのである。
西洋古代史を専門とする著者の硬質な筆致に、最初は怯む読者もいるかもしれないが、読み進めるほどに面白さは増していく。そして、読み終わったところから再び最初に戻って読み返すと、また一段と理解度が増す……そんなふうに繰り返し味わえる1冊である。