道東の怪物
ある1頭のヒグマについて語る言葉は正体不明の怪物の輪郭を描き出し、漠然とした恐怖を呼び起こす。
2019年の夏、北海道東部の標茶町に出現したヒグマが放牧中の牛を次々と殺傷しはじめる。襲われた牛の数は2023年までに合計66頭に及び、北海道庁が捕獲対応推進本部を立ち上げるという異例の事態となった。
襲った人間の肉を食べることから肉食と思われがちなヒグマだが、本来は雑食で、生涯一度も肉を食べない個体が9割を占めるという。また通常、ヒグマは森林や山岳地帯に生息し、放牧地のような開けた場所には出没しない。習性を知ると「家畜を襲うヒグマ」の異常さがわかる。
特異な点はこれだけではない。牛を襲うヒグマを見た者はおらず、犯行はいつも牧場主が行方不明の牛を探すことで明らかになる。移動経路は不明で、その姿はカメラにも写らない。罠にもかからず、次はどこに現れるかすら予測できない。
更に不思議なことに、このヒグマは獲物への執着が薄かった。獲物に強く執着すると言われるヒグマだが、この個体はわざわざ襲っておきながら、襲った牛に執着せず、現場に戻ることもない。それでいて、また別の場所で牛を襲う……。まるで狩りを楽しんでいるかのようだ。
『異形のヒグマ OSO18を創り出したもの』は、道東を恐怖と混乱に陥れたヒグマ「OSO18」をめぐる攻防を描いたドキュメントだ。NHKスペシャル取材班の山森英輔氏と有元優喜氏が2年にわたりOSO18の生態を調査、伝説のハンターたちとともにOSO18を追い続けた経過から生まれた。
いくつもの謎が「事実は小説より奇なり」を地でいくスリリングな展開とともに描かれ、ページを捲る手が止まらない。
果たしてそのヒグマは、どこにいるのか。
どうして、食べもしないのに襲うのか。
そしてなぜ、そのような個体が生まれたのか。
怪物の実像

このヒグマの追跡をドキュメントとして記録しながら、その誕生の背景に迫るという趣旨の有元氏の提案(番組企画書)にはこのように記されている。
OSO18とは、いったい何者なのか。
人間が自然をコントロールしてきた時代の終焉を告げる存在なのか。
奪われた土地に再び侵入する無数の獣たちの象徴なのか。
あるいは、善を求めて過ちを犯す人間の写し鏡なのか。
――見えない怪物に、人間は何を見るのか。
OSO18は、本当はとてもいいクマだと思います。慎重さと臆病さを持った、賢くて、学習能力の高いヒグマ。だけど、どこかで道を間違えて牛を襲うようになった。
「出没してる時期がほんの二、三ヵ月。それ以外の時期は出ていない。だから、基本的にどこにいるのかわからない。それに、何のために襲ってるのかも理解しづらい。(中略)食べるためにやってくれたほうがわかりやすくていいんだよ。食べるためじゃないんだもん。どう見ても。こんなヒグマは前例にないです。まるっきり」
出現から3度目の夏、OSO18はついにその姿を現す。その名の由来となった足のサイズが新たな謎を呼び、やがてすべてが解明されていく過程で浮かび上がるのは、ある1頭のヒグマの生涯だった。
その特異な行動と被害の大きさから、日本のヒグマ事件史の中でも特筆すべき存在の「OSO18」。本書はその姿を正確に描きだしている。引き込まれて一気に読み終える爽快感と、読後の切なさをぜひ味わってほしい。