歴史の審判
本書は、日本におけるコロナの危機管理がどういうものであったか、政権に助言する立場であった専門家たちに光を当てた一冊だ。WHOで長く公衆衛生の指揮をとってきた重鎮・尾身茂に、数理モデルを駆使して流行予測を立てた西浦博、ウイルス感染症のデータ分析で世界的な研究者・押谷仁といった多くの専門家たちが、どんな立場に置かれ、どういう姿勢で政治家や官僚たちと向き合い、国民に情報を発信したかを詳細に聞き取り時系列に沿って検証した、とても意義のある(そして読んで実に面白い)本である。そこから浮かび上がってくるのは、英雄的な専門家たちの姿ではない。内閣支持率、政局、主導権争い、忖度、ありとあらゆる政治的駆け引きに振り回されながら、科学者として「どうしても伝えなければならない」「そうしなければ歴史の審判に堪えられない」と苦悩し、メッセージを発する専門家たちの姿だ。
本来、政治と専門家はどういう立場であるべきなのか? 英国ではこのようなルールが定められているという。
助言者すなわち専門家は、「科学は政府が政策決定の際に考慮すべき根拠の一部に過ぎないことを認識しなくてはならない」とする一方、「政府側は、科学的助言と相反する政策決定を行った場合には、その決定の理由について説明すべきである」と記している。
この原則がないままに、日本は新型コロナウイルス感染拡大に突入。正しいプロセスを踏まない政治力の行使は混乱を招き、それは最後まで続いた。安倍総理が突然打ち出した小中高校の全国一斉休校要請は、そのリスクを専門家に聞くプロセスを取っていないし、菅政権下のGo Toトラベルキャンペーンや東京オリンピックの開催についても実施ありきで(ひいては政府と小池百合子東京都知事との政治的駆け引きに終始)、専門家の提言はギリギリまで無視された。本書を読んでいると、あのコロナ自粛期間中にこんな不毛なことが政治的優先事項であったのかと怒りがおさえられない。
専門家たちが真の敵であるウイルスの動きを探り、拡大を止めようと必死になっても、主導権を握りたいが責任は負いたくない官僚や、世論と内閣支持率の数字を前に様子見を決め込む政治家。そのなかで専門家たちは、日々難しい選択に迫られることになる。西浦博はこう語っている。
本音を言えば、感染症の流行が起こっているなかで決定権限なんて何もないのに責任を問われる。厚労省の中にいていいことなんてほとんどないんです。ただ、自分を育ててくれた国ですので、その国が従来通りの行政対応だけに終始して、みすみす流行が広がるのを黙って見ているわけにはいかなかった
一片の使命感に支えられ、政権とギリギリまで調整を重ね、それも難しい場合は官僚から「それは個人として言うんだよね」と念押しされて情報を発信し、批判の矢面にさらされた専門家たち。その徒労感を考えると、察するにあまりある。
そうしたなかで、専門家会議は、「科学者が声を上げるのは本来的に誤り」とする考え方と、「諮問に答えるだけでなく専門家として積極的に情報分析・提言する」という考え方に、局面局面で揺れながら、ときに控えめに、ときに前に出て対応することになる。
ここでコロナ自粛下の私たちを振り返ってみる。連日ニュースやワイドショーに登場するコメンテーターの意見を丸呑みし、やれ海外では誰もがPCR検査を受けられると不満を漏らし、日本にはオードリー・タンはいないのかと悲観し、医療従事者やエッセンシャルワーカーを持ち上げつつ冷たい距離感を保っていた私たち。
セキュリティというものを他者に任せていて、依存していれば大丈夫と考えてしまうような、自主性が欠けているような国民性がありはしないか
問われるべき点は、そうした政治を支持し、支える私たちにも間違いなくある。
コロナ後に求められる本当のあり方
実際、日本におけるコロナの危機管理はどうだったのか?
新型コロナウィルス感染症による日本の死亡者数は7万4688人。米国や英国の1/5、ドイツの1/4だ。この数字は日本がうまくやり遂げたとも言えるが、欧米諸国が2020年、2021年の死亡者が多いのに対し、日本は2022年の死亡者が最多である。つまりは、コロナに対する規制を解くプロセスで最も死亡者を大きく増やしてしまった。その解釈はさまざまあるだろうが、多くの命と引き換えに経済回復へ舵を切ったと私は理解する。その死亡者を前に、「それも致し方ない」と言えるほどタフな人がどれぐらいるだろう。できれば見なかったことにしたい。しかし、それでいいのだろうか?
7万4688人の命に報いるために行うべきは、徹底した検証と、次なるパンデミックへの研究と準備ではないのか? 本書は科学者たち専門家たちの立場からの検証だが、政治家や官僚、保健所や医療現場、メディア、政策に振り回された市井の人たち、もっとさまざまな立場からの検証が行われるべきだ。英国では緩和後も、何万人ものボランティアを対象に継続的なPCR検査を実施してリスク評価を行なうほか、多くの予算を立てて研究へのバックアップを行なっている。
情報の基盤をそれだけ充実させるのは、英国が感染症対策を国の安全保障と構え、研究をサポートすることが国益につながるという意識が政府に浸透しているからだろう。
一方、日本はどうか?
永田町や霞が関にも日常が戻ってきた。政府に都合のよい結論にお墨付きを与えてくれる専門家の「御用審議会」が政府の決定を支える日常が戻ってきた。そうした枠にはまらない尾身たち専門家がいなければ日常性を取り戻すための決定さえ踏み出せなかったのに、新しい日常の風景の中に、尾身や押谷や西浦の存在は消えていた。
なんだろう、この後味の悪さ。
第一波の感染拡大期、西浦博は「対策を打たなければ死者は四十二万人になる」という発表を行った。この発表を思いとどまらせようと、押谷仁はこう言ったという。
「これは首相が言うべき筋の、重い数字だ」「調整が整わないならこの国はもう駄目なんだ、駄目になっても言わないほうがいいんだ」
政策決定権も持たない専門家たちに、この判断を強いる日本の政治は本当に大丈夫か?
レビュアー
関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。