「明治の初めに一坪につき五十銭の金をつけて民間に払い下げた」という千日前、ここはかつて墓場だったそうです。払い下げ後、見世物興行などが開催され繁華街へと姿を変えていきました。街の紹介の後、この千日前を舞台にした噺が語られます。出版されてから30年余、ここに描かれた大阪もずいぶん変わったのではないでしょうか。
この本は今年亡くなった桂米朝師匠が上方落語にまつわる土地を訪ね歩き、その場所を舞台にした噺を紹介したものです。演目の内容だけでなく取り上げられた街がかつてはどのような場所であったのか、今(昭和50年当時ですが)どうなっているのかを洒脱な語り口で綴った紀行文です。どのページからも情景や世相・人情を描きだす口調からその細やかさ、几帳面さがうかがわれ、上方落語を徹底的に研究した米朝師ならではの奥深さが感じられます。
「とりあげた地名百余り、有名な土地もあれば落語によってのみ伝えられているもの」もあるそうですが、場所ごとに添えられた写真と手書きふうな地図はとてもすばらしいものです。米朝師が「昭和五十年代の写真、これは後世、必ず貴重な資料となるに違いありません」と書かれたとおりに撮影された街の風景、お店、神社仏閣、人(大人、子ども)が当時の上方の様子を見るものにうかがわせます。とはいっても今では懐かしの写真ということになっているかもしれませんが。
ところで上方落語というとなんといっても明治・大正期の桂春団治が有名です。破滅型芸人の典型でその破天荒な生き方はドラマや歌(都はるみの『浪花恋しぐれ』など)にもなっています。この本の解説で司馬遼太郎さんが、この春団治にふれた「春団治の模倣者たちが落語を破壊した」(宇井無愁さん)という言葉を受けてこう書いています。
「米朝さんは上方落語を春団治以前にもどし、さらには、桑原武夫氏のいうところの「一流の芸術には不可欠だと思う一要素」をその芸にたっぷりそなえさせたのである」と。
「〝落語の邪道〟とか、〝一人漫才〟などといわれていた」春団治という個性が強すぎて落語という世界を超えてしまい、上方の落語そのものは大きな危機に陥ってしまったのでしょう。その危機の中で米朝師は噺家になりました。語られなくなった古い噺を復活させ、新しくよみがえらせるということも米朝師の心の中にあったのです。
「昭和三十年前後の上方落語は、それは情けないものでした。『上方落語……、へえ、まだ滅びずにあったのかい』……まあ、そんなものでした」(米朝師の言葉)とまでいわれていたようです。
この上方落語復興への米朝師の取り組みはまるで考証学者を思わせるようなものだったようです。どのように演じられていたのかできる限りの文献にあたって調べ上げ、また落語界の大先輩から多くの聞き書きをしました。その米朝師の噺を調べ上げるという情熱がこの本のいたるところからも感じられます。
堂島ではじまり千日前、住吉など大阪の各所、さらに京都、奈良、兵庫、伊勢をめぐる噺の数々……そしてその土地を舞台に語られた噺のひとつひとつから米朝師の声が聞こえてくるようです。今、住んでいる人はその街でこんな噺を語られたのかと思わぬ発見があるかもしれません。地名の由来、変化もあり、もちろんその地が当時、どのようなものだったのかも丁寧に書かれています。
お大尽や貧乏人が住み、あほな奴が住み、また情にあふれる人が住む、その人たちの生き方が生んだ落語の世界。さらに機知に富んだ噺を交え、この本自体が上方落語大全のようでもあります。なにしろ、噺のさげのよしあし、また今に通じるものかどうかまで語ってくれているのですから。
じっくりと、この本を片手に大阪、上方を歩いて見たいと思います。この風景がまだあるかどうかは分かりませんが、そこにあったもの、生きていた人たちの息吹は感じられるかもしれません……。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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