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2015.12.03

レビュー

三島由紀夫が死を選んだ真の理由とは!?

「保守かリベラルか」。 欧米世界は、よくも悪くもあたかも巨大な歴史実験場のようにさまざまな思想が現れ、いろんな政体を考えだし、本当に実践してきた。
そのため保守かリベラルかという課題も、あらためて意識する必要すらなく彼らの心の血肉になっているのではないかと思います。
たとえばジョージ・A・ロメロ監督の「サバイバル・オブ・ザ・デッド」というゾンビ映画では、「ゾンビといえども人の形をしている以上はそこに畏敬の念を持つべき」という保守勢力と「すでに理性を失っているのだからばんばん処分すべし」というリベラル勢力の争いが描かれていました。僕などはこれを見て「ホラー映画でさえもこんなテーマが出てくる西欧世界の業の深さよ」と感じたものです。

こういうことをいうと巨大掲示板などではバカにされるのがオチですが、僕自身はもし「おまえは保守か、リベラルか。答えなければ殺す」と訊かれたら、迷わずに「リベラルです」と答えるタイプです。もし世の中に「保守リベラル判定リトマス紙」というものがあったとしてそれを咥えたら、間違いなく赤く染まることでしょう。
なぜこうなったかは割りと単純で、僕の地元の中学校は校則で丸刈りが強要された。それが嫌でたまらず、キリスト教系の、自由な校風で知られた高校に進学したのですが、そこはとてもよく馴染んだものです。もっとも馴染みすぎたあまり、ろくに学校に行かず中退してしまうことになりましたが。それやこれやで、少なくとも自分はいわゆる「保守」ではないと思います。

しかしでは「保守」とはそもそも一体なになのか。哲学者の適菜収氏は、本書「ミシマの警告」で、保守思想とは近隣国に対する強硬な姿勢や、異文化に対する排他性。靖国神社への参拝なども保守とはなんの関係もない。そもそも「保守」とは思想ではない。知識人と呼ばれる人でさえこのこと理解している人は少ない、と提起します。
では保守とはなにか。適菜氏はそれを「人間理性に懐疑的であること」と述べます。「なんじゃそりゃ?」と思われるかもしれませんが、さらにより現実レベルでいうと「近代啓蒙思想をそのまま現実社会に組み込むことに否定的なのが保守」ということになるそうです。

ちょっと僕に解説できるかどうか不安なところですが、近代啓蒙思想とは言ってしまえば合理主義です。「世界は合理的にできている。人間は理性を正しく使えば、社会をよりよい方向に導くことができる」という思想です。一見、正論です。それにこうした合理主義を否定するということは「じゃあ保守とは非合理主義なのか」という反論もあるでしょう。実はそれもあながち間違ってはいないのです。

イギリスの保守思想家、エドマンド・バークは、王権や宗教的権威といった魔術的な、すなわち非合理主義的な権威も、人間社会にとって重要であると指摘していました。理性的に考えれば王様の権威も、宗教の教えも、本当のところぶっちゃけ合理的ではありません。ですがこうした権威が権威として認められない社会は安定しない。
実際、王という権威を否定し、その代替として「理性」という信仰を掲げたフランス革命で横行したのは、人の人に対するテロでした。一方、革命は起こしても王制を廃止しなかったイギリスでは伝統的に保守の風土が強く、20世紀の作家、ウィリアム・ゴールディングも「蝿の王」で「権威が認められない社会は安定せず、すぐ殺し合いに陥る」という物語を描いています。
そういえばやはりイギリスの哲学者、デイヴィッド・ヒュームは「理性に人間の行動を左右することはできない」と言っていたものでした。そもそも人は妙に理性を立派なものとして持ち上げ過大評価してきたが、結局、人間の行動を左右するのは快や不快といった生命の原理。理性なんてただ結果を予測して計算するものでしかないと。ヒュームは当時、文筆家として非常に売れっ子だったそうですが、この人のこういう人を食った発言は好きです。

確かに理性は、合理主義は、実は必ずしも万能ではない。たとえば「1人を殺せば100人が助かる」という状況があったとすれば、一人を殺すことは、これは合理的なことです。ですが私たちは、少なくとも簡単には、それをしません。そういうことを実践していくとやがてはディストピアに至るという「常識」が、私たちの中に生命の原理として根付いているのでしょう。
ドストエフスキーの小説「罪と罰」では、主人公のラスコーリニコフがまさに上のようなことを考えておばあさんを殺してしまいましたが、結局彼も最後は宗教に癒やしを見出すことが暗示されて物語は終わります。
そういえば冒頭で紹介したロメロの「サバイバル・オブ・ザ・デッド」でも、リベラル勢力は、その軽薄さ、薄っぺらさを露呈していきました(保守は保守でその頑迷ぶりを発揮するのですが)。

そうした人間理性に対する懐疑こそが保守。しかし明治維新でもって駆け足で近代化しなければなかった日本は、無批判に近代啓蒙主義を受け入れてきた。
本当は本場の西欧世界でも、いろいろと反省もあり、批判もあり、かつそれらを踏まえてなお信念を貫く人もありといった近代啓蒙主義について、細かいコンテクストをすっとばして受容し、本来の保守である「割り切れないものがある。割りきってはいけないものがある」という態度が希薄になってしまった。
三島由紀夫は、このままでは極東のかたすみに無機質的で文化的に空虚な国ができてしまうと危惧していた人でしたが、現代ではまさにそれが実現している。適菜氏は現状についてこう指摘します。

「世の中は複雑で矛盾に満ちています。簡単に答えを出せない問題はたくさんあります。それを二項対立に落とし込み、白黒はっきりさせようとするのがB層です」

本来の保守でもなんでもない人が、もてはやされている。僕などはいわゆる「保守の論客」と持ち上げられる人が、お金や女性関係で問題を起こし釈明をするのを見て、「フリーダム過ぎるのではないか。それはむしろリベラルではないか」と思うこともしばしばなのですが、そうしたいかがわしさを肌で察知する常識こそが保守。

リベラル愛を持つ僕でもそれはわかる気はします。世界は複雑で、現代はある意味、すべての言葉がすでにある。どんな言葉もある部分は間違っていて、ある部分は正しい。
たとえばヨーロッパに対するテロについて、あれは「秩序を破壊する行為」なのでしょうか。「自由を蹂躙する行為」なのでしょうか。
右や左の人はそれぞれ自分の立場で声を上げることでしょう。しかしそうした「絶対の答えがある」という単純な二項対立の発想は、気持ちいいかもしれないが、ダチョウが砂の中に頭をつっこんで敵がいなくなったと感じるのと似たようなものです。暗闇にいれば世界は簡単かもしれないが、外に複雑な現実世界がある。
もし中国が攻めてきたらどうするかという問いに、無造作に「そんなものは追い払えばいい」と言った都知事がいましたが、んな単純な訳がない。アホかと思いますが、これを聞いて気持ちよくなり、喝采を叫ぶ人も少なくない。そうした風土は確かにあると感じます。
本書は、三島由紀夫の言行を軸とし、されに西欧の歴史的な経緯を踏まえて本来の保守の「感覚」を説き、その上で今、一部でもてはやされているものがどんなにいかがわしいか、容赦なく批判を重ねます。

僕は正直、三島由紀夫という人をあまり詳しく知らなかった。しかし本書を読んで特に印象的だったのは、三島という人が右でも左でもない。世界を単純化してしまうイデオロギーにこそ距離をおく「相対主義」の人であったことでした。
正直、なにも知らないまま、先入観だけで「てっきりイデオロギーの人か」と思っていたのですが、蒙を啓かれたものです。そして、三島が死を選んだ理由について本書でも考察されますが胸を突かれ、納得がいきました。三島由紀夫ファンの人もぜひお勧めです。

ただなのですが、本書を読みながら、僕のような校則のない学校をわざわざ選ぶ筋金入りのリベラリストは読者の想定外として、この本を理解し、共感できる人は今の日本にどれだけいるのだろうか。余計なお世話ですが、そのようなことを感じました。
現実は複雑であるからこそ、単純に惹かれる。理解できないことは脊髄反射で拒絶する。明快に世相を切る辛口タレントや解説者がもてはやされ、愛国とかそんなメッセージが受ける世の中です。そもそも複雑であることを受け入れ、バランス感覚をもってイデオロギーを拒否することに共感できる人は少ないのでは? 
そう思って拝読していたら最後にちゃんと「本書は正気を維持している少数の仲間のために書きました」とありました。

レビュアー

堀田純司

作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に“中年の青春小説”『オッサンフォー』、現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。


近況  阿佐ヶ谷のとあるディープなお店に、俄然注目しています。

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