もし仮に歴史に影を落としたと思われる残念な戦国武将の名を挙げろと言われれば、僕は迷わずこの3人の武将を挙げたいと思う。
1人目は「本能寺の変」でお馴染みの明智光秀。
中国の毛利軍に苦戦する羽柴秀吉に加勢するため、戦地に向かうはずだった明智軍1万3千人の大軍が、こともあろうに京都・本能寺に宿泊していた主君織田信長を急襲。戦国時代史上最大のミステリーとも言える謀反劇を演じた武将だ。
2人目は同じく主君織田信長に対して謀反を起こした有岡城主の荒木村重。
信長への反旗は不退転の決意であったはずだが、結局は妻をはじめとする近親者及び家臣たちを置き去りにして、側近数人と有岡城から抜け出すなどとは武士にあるまじき行為。残念この上ない武将として脳裏に刻まれている。
そして、3人目が関ヶ原の戦いにて優柔不断な裏切り者としてレッテルを貼られた本書の主人公でもある小早川秀秋。
秀秋は豊臣秀吉の正室ねねの甥として生まれ、生後まもなくして秀吉の養子になるなど何不自由なく育てられるも、秀秋14歳の時、秀吉と淀君の間に実子・拾い(後の豊臣秀頼)が生まれたことから、半ば強制的に小早川隆景の養子に出され、小早川姓を受けることになる。
そして、義父 隆景亡き後の関ヶ原の戦いの折り、まだ19歳という若さであったものの、所領の筑前名島(現:福岡県福岡市東区名島)より1万5千もの大軍を率い、石田三成によって総大将に担がれた主家 毛利輝元率いる西軍側に与するのである。
しかし、秀秋の重臣であった稲葉正成、平岡頼勝の両名が東軍の黒田長政からの調略を受け懐柔されていたことから土壇場になって東軍への鞍替えの説得を受ける。
戦火の火蓋が切られもまだ西軍につくか東軍につくか、陣取った松尾山で決めあぐねる次第。結局東軍総大将・徳川家康側からの発砲によって目が覚めたかのように西軍・大谷吉継の軍に兵を差し向ける。そして、その秀秋の優柔不断な裏切り行為が幸か不幸か関ヶ原の戦いを決する最大の要因として史実に刻まれるのである。
また関ヶ原の戦い以降は西軍の主力であった宇喜多秀家の旧領岡山藩55万石を加増・移封されるも、秀秋はわずか21歳の若さで不慮の死を遂げることになるのだ。その原因が関ヶ原での自らの裏切り行為によって自刃した大谷吉継の霊に憑りつかれ、半狂乱のうちに死に至ったというようなまことしやかな噂話まで囁かれるなど、その死に対してまでも残念な結果を生んでいる。
が、しかしである。小早川秀秋が本当にそこまで愚かな人物であったのか、もしそうであるならば、秀吉は秀頼が生まれるまでの間、何故に秀秋を豊臣秀次につぐ跡継ぎとして養子に残していたのか、また、毛利一門の事実上の統率者として権勢を誇っていた名将小早川隆景がそんな優柔不断で臆病者の秀秋を果たして自身の養嗣子に据えるだろうか、しかもその翌年に隆景は安芸国三原へ隠居し、秀秋に家督をすべて譲っているのである。その事実は裏を返せば実は秀秋が秀吉や隆景にとって将来が大いに期待できる跡継ぎに足る人物であったという証明にはならないだろうか。
本書は決して歴史書というわけではないが、その上澄みだけの史実から、未だ奥深くに沈殿している秀秋の優れた才覚を思わせる逸話を丁寧に汲みだすことで、小早川秀秋の本当の生き様、真実の大義、そして、クライマックスとなる関ヶ原の戦いでの大いなる野望を見事に浮かび上がらせたと言っても過言ではない。
果たして秀秋は東西両軍の戦いが拮抗する中、どのような駆け引きや思いを募らせ西軍・大谷吉継の軍への突撃を下したのか、その息を呑む決断の瞬間を本書でとくと味わっていただきたい。もう誰も小早川秀秋を単なる優柔不断な裏切り者などと軽々しく呼ぶことはないだろう。
そして、秀秋がなぜ21歳の若さで亡くならなければならなかったのか、そこにも著者の見事な推理が披露されているので、ぜひ最後の1ページまで味わって読んでいただきたい。
本書を締めくくるこの最後の言葉が今も重く心に響いている。
「歴史とは生き残った者が紡ぐ過去である」。
レビュアー
1965年、三重県生まれ。小池一夫、堤尭、島地勝彦、伊集院静ら作家の才気と男気をこよなく愛する一読書家です。
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