本書はそんな“老い本”の森に分け入り、「老い」の在り方について考察していく1冊だ。
取り上げる“老い本”は、古今の、小説をはじめ、エッセイ、漫画、そして料理やファッションなど生活実用書にいたるまで、時代もジャンルも多岐にわたる。
これら“老い本”を、刊行当時の時代背景――様々な社会制度、平均寿命・年齢構成に関するデータ、職場や家庭における男女の役割観など――についても解説しながら軽快に紹介していく。そこにあぶり出されるのは“老い”の精神史そのものだ。
「ベストセラーは時代の映し鏡」とはよく言われるが、本書を読むと“老い本”は「映し鏡」以上の存在に思えてくる。“老い本”は人々が理想の老い方へ向かうための“時代のエンジン”のような役割をもっているのかも、と。
“老い本”はその時々の社会に充満する「老いることへの不安や恐怖」を掬(すく)い取り、言葉の力に転化する。“老い”の問題としてクローズアップされ、徐々に社会制度や仕組みが見直されていく。しかしそれでも尽きることのない人々の不安を糧に新たな“老い本”はまたぞろ生まれてくる……。といった具合に。
とりわけそう感じたのは、認知症をめぐって考察するくだりだ。
著者は有吉佐和子の小説『恍惚の人』(1972年)を“老い本”のルーツとして取り上げる。同作はこの年だけで200万部近く売れた、同年度ナンバーワンのベストセラーだ。
いわく、〈この本の影響で、日本においては高齢者の諸問題がクローズアップされ、様々な制度ができるきっかけともなった〉。
〈一九七二年(昭和四十七)の日本人達も、この本がパンドラの箱を開けたことによって、痴呆症(当時)への恐怖、年をとることへの不安を発見してしまったのだ〉とまで言い切っている。
『恍惚の人』の主人公は、舅の介護に孤軍奮闘する嫁・昭子。有吉佐和子はこの小説を書くことで〈認知症の実態、そして認知症の老人を介護する家族の実態を描くとともに、「この時代の家族のあり方」を示〉した。
今から約半世紀前の刊行当時、「認知症」という名称はまだない。作品内での表現は「耄碌(もうろく)」。主人公・昭子は日々エスカレートする症状を医師に問い合わせ、そこで初めて「痴呆症」という言葉を知る。そのくらい、多くの日本人にとって未知のものだったのだ。
同作が描いた「老いることへの恐怖」は〈日本人がその後どんどん膨らませていくことになる老いへの怖れを予知したものだった〉と著者はいう。
世の中的には、その後ずいぶん経って介護保険制度がスタートし、「痴呆症」は「認知症」へ名称を変え、同症状の受け入れ可能な介護施設も整備され、人々の“認知症”観は成熟しつつあるように見える。
こうした中、認知症本の世界は今どうなっているのか――。認知症の人の日常を旅人気分で巡るという設定(『認知症世界の歩き方 認知症のある人の頭の中をのぞいてみたら?』2021年/実用書)、「自然な現象」として敢えて「認知症」ではなく「ぼけ」という言葉を使って寄り添っていこうとする態度(伊藤亜沙・村瀬孝生『ぼけと利他』2022年/人文書)、執筆者が自ら認知症を公表する聡明さ(桐島洋子『ペガサスの記憶』2022年、森村誠一『老いの正体 認知症と友だち』2022年/エッセイ)など、認知症本の新たな広がりについても注目する。
認知症のほかにも、じつに多彩な切り口が盛り込まれている。
定年クライシス、老後資金、死生観、配偶者ロス、エイジングとおしゃれ、高齢者のシングルライフ、食生活、そしてセックス……。
なかでも、配偶者ロスをめぐって男性作家と女性作家を対照的に考察するくだりは、しみじみと胸に迫り、味わい深い。
昭和一桁生まれの男性作家(江藤淳、加藤秀俊、城山三郎ら)は家事の訓練などしてこなかった世代。彼らは妻に先立たれて「手放しの悲愴感」に沈み込む。それに対し、同世代の女性作家(田辺聖子、曽野綾子、半藤末利子ら)は夫に先立たれても普段通り「仕事をこなし」「日々の生活を回していく」中で死を受け入れていく。
また、死生観をめぐる石原慎太郎と曽野綾子の二大巨頭の対談(『死という最後の未来』2020年)についても、両作家を対照的に評す。「わからないことはわからないままにしたい」曽野と「貪欲に死の実相を探り尽くしたい」石原の交わらない対話は「ほとんどコント」、のコメントに思わず吹き出してしまった。
著者は私よりもひと世代上の、いわゆるバブル世代。執筆の動機となった“老い”への関心について「あとがき」にこう語っている。
雑誌世代の我々は、若い頃は自分の実年齢よりも少し上をターゲットとした雑誌を読むことがよくあった。少し背伸びをしたい、自分がこれから行く世界を見ておきたい、という気持ちがあったのだ。
同じように我々は今も、少し上の世代向けの老い本のことが気になっている。
本書全体を通して感じるのは、それぞれの“老い方”へのリスペクトだ。どの“老い本”についても思いのまま率直に評す、がしかし決して否定はしない。
きっとリアタイ世代にも、背伸び世代にも、幅広く読まれる本だと思う。どんな年齢・立場の人も、自分が求める理想の“老い本”を選ぶことができるはずだ。
基本スタンスがフラットだからか、あからさまな肩入れはないが、著者自身の思い描く理想の“老い方”らしきものが顔を出す瞬間もある。
たとえばそれは、記憶の中の祖母の姿とも重なる明治女の名“老い本書き”(幸田文、白洲正子、辰巳浜子)へのシンパシー、「80年代にキラキラと輝いていた」先輩同業者の老後ライフ(吉本由美『イン・マイ・ライフ』2021年)への憧れ、精神の中に少女性を抱き続ける「老い本を書かない」乙女老女(黒柳徹子、角野栄子、田辺聖子、森茉莉)への畏敬の念……エトセトラ、エトセトラ。
本書の書名に主語はない。意味深なタイトルだが主語はきっと本書の著者酒井順子そのひとだと、読み終えてそんなことも思った。読み終えてそう思った。近い将来に著者が“老い”のリアタイ世代として書く“老い本”までも予感させてくれる1冊である。