「女房に逃げられる才能を持つということもあるのだ」という痛快(!)ともいえる大島渚監督のゴダール評から始まるこの本は、ゴダールの歩みの中にいかにして女優(女性)が大きな影を落としているかを明らかにしたものです。これらの女優(女性)と出会うことなくしてゴダールはありえなかったのかもしれません。(ゴダールファンには怒られそうですが……)
明快・痛快なフィルムを作っていたゴダールがパリ五月革命(一九六八年)で大きく変貌したのはよく知られていることだと思います。
「一九六八年から七二年にかけてゴダールが恐ろしい速度のもとに変貌してゆき、従来の映画製作、配給、上映のシステムの一切を廃棄して過激な実験を重ねていったこと」にあったこと、そのゴダールの姿を象徴するかのように『悪魔を憐れむ歌』をフィーチャーしたザ・ローリング・ストーンズの映画『ワン・プラス・ワン』が撮られたように思えてなりません。自己紹介から始まるこの歌は、まるでゴダール自身の紹介にも思えてしまうことがあります。革命にとりつかれたゴダール、彼自身が悪魔なのか、彼に取り憑いた観念こそが悪魔なのかもしれませんが……。
「(自己変革が)とうてい不可能な女に、自己変革しろと迫るのがゴダールの趣味なのかもしれない。どうもゴダールにはそういう不可能へ寄せる情熱のようなものがある」
いわばゴダールの自己変革の魔に直面した5人の女性をとりあげたゴダール外伝といったものがこの本だと思います。。
『勝手にしやがれ』の魅力をつくりだしたジーン・セバーグ。「零落の聖女」と題されたように、生涯を通じて徹底して聖女であった彼女はのちに黒人解放運動に身を投じ、不幸な最期を遂げました。彼女の生はまるでゴダールの陰画(あるいは陽画といってもいいのですが)ように感じます。社会的正義(というもの)を信じひたむきに生きた彼女が『聖女ジャンヌ』がデビュー作であることもなにかの暗示のように思えてなりません。
ゴダールに殉じたように思えるセバーグの対極がジェーン・フォンダでした。
「およそ二〇世紀の女性史のなかで、彼女ほど俳優としても、政治活動家としても、女性としても、思う存分に好きなことをし、両手に抱えきれないほどの名誉と栄光を手にした女性もいないだろう」
というフォンダですがゴダールからみれば「裏切り者」であり罵倒の対象でしかありませんでした。ことはフォンダのベトナム戦争下でのハノイ訪問でした。詳細はこの本で語られているのでお読みになってください。このフォンダの映画が『万事好調』というのなにかの悪い冗談みたいです、今から振り返ってみると。
ゴダールの魔と全く無縁だったフォンダ、それに対してゴダールの魔を踏み台にして、ついにゴダールを追い越していったのがアンナ・カリーナなのではないでしょうか。ゴダール最大のミューズであった彼女はゴダールの魔を飲み込み「二一世紀を迎えようとする日本で、アンナ・カリーナは世界映画史上に刻まれた女優である以上に、現役のアイドルだったのだ」という彼女、作家主義というもとに作られた(はず)のフィルムを超えて、誤解をおそれずにいえばスター主義として生きているのかもしれません。
ではあとの2人はどうだったのでしょうか。
ゴダールの作家主義に対抗したわけではありませんが、女優としてより作家としての自己を強調しているアンヌ・ヴィアゼムスキー。彼女は未だにゴダールの魔を意識しているのかもしれません。
けれど、ではゴダールの魔はどうなっているのでしょうか。
それを教えているのが最後の(?)女性アンヌ=マリ・ミエヴィルです。激しい変貌の果て行き詰まり(?)すら感じさせていたゴダールを復活させたのが彼女だったといってもいいのではないでしょうか。といっても、彼女は決してゴダールの魔を飼い慣らしたわけでも、ゴダールの魔を取り払った(!)わけでもないと思います。脚本家・共同制作者としての彼女は創造には魔が必要だということは、ゴダールほどではないにしても、それが必須であることは知っていたのではないかと思います。彼女は徹底的にゴダールの背後に隠れることでゴダールの魔との共生を成し遂げたのではないかと思います。
ゴダールと女性をめぐる物語は同時にゴダールの精神に吹き荒れた嵐(魔)の歴史でもあったのだということを教えてくれた一冊でした。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。