神田生まれの江戸っ子の気っぷの良さといっちょかみの気質、時にそれは加賀まりこさんの長所とも欠点ともなっているいるようです。損得勘定などは二の次のようなのです。
「振り返れば、ほぼ半世紀、嵐のように生きてきた。ひたすら自分の感性に忠実に。心に響くものにまっしぐらにむかいながら」
という加賀まりこさん、この本には、小悪魔、和製小BB(ブリジット・バルドー、といっても通じるのでしょうか……?)と言われたデビュー以来、ひたすら自分に正直に生きてきた女性のありのままの姿がここにはあるように思います。
加賀さんは20歳の時に一度は引退を決意しますが、後に舞台で復帰。そしてしばらくしてある映画と出会います。映画はアニエス・ヴァルダの『幸福』でした。それを見てこう感じたといいます。
「人って、その人でしか成り立たない幸福なんて、実のところ、ないのかもね」
「人は“置き換え”がきくというそのことにうたれた。シニカルに聞こえるだろうか。でも自分の仕事に当てはめてもそう思う。(略)私自身の奥底にある、ある種の無常観のようなもの……執着心が薄いのもそれゆえかも。(略)でもだからこそ、想いや時間を共有したり、心の底から笑い合えるような人との出会いと、縁を、大事に思える」
なにか加賀まりこさんのチャーミングの根っこを感じてしまいます。
「私でなきゃ」は幻想だという思いがかえって人の中にチャーミングさを生むのかもしれません。「私が、私が」というものほど加賀さんが嫌うものはないのかもしれません。その感性の上でこそ
「幸せって特別なことじゃない。自分がちょっと誰かに親切にできたり、花が咲いたのを喜べることだと私は思う」
「自由というのは、全部捨てた時、初めて得られるものなのです。多くの不自由を捨てたあとに残る、ほんのひと雫」
といった想いが出てくるのでしょう。もちろん彼女は「昨今は〈勝ち組〉〈負け組〉なんて言い方が跋扈しているけど、私はその呼称も分け方も好きじゃない」とつけくわえることも忘れてはいません。
加賀さんの美意識は社会へも向かいます。ゴミ処理場だった頃の夢の島で仕事に従事している人の仕事ぶりを見て「その仕事が人の罪を引き受けてくれていると思ったからだ。私が見たのはそれくらい神々しい作業だった」と感じ、
「20世紀、この世界の中で日本は自分の“尻拭い”をしてこなかったんだから。ホント、いい加減な国だと思う。私にはそれが夢の島で見た“たれ流し”のゴミと同じに見える。なんと後片付が下手な国民なんだろうか、と」
「誰も彼もが心アンビシャスだらけにしているような場所に身を置いていたんだなぁ……と、つくづく思った」
と振り返ってみたりもします。
そして今
「還暦を過ぎてきた今、私の中にハッキリと根づいたものがある。それは世の中には“多くを求めすぎない幸せ”があるのだという思い」
とともにある想いが心に浮かびます。
「母が私に遺していってくれたのは、何よりも淡々とした孤独の“引き受け方”じゃなかったかと」
チャーミングの極みをみたような感じがします。
彼女にさまざまな影響をあたえてきた人たちと出会った六本木という場所。今は消費の象徴のような明るさだらけの街がまだ薄暗さを残していた頃、そこは時代を切り開いていった人たちであふれていたのです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。