〈封建主義〉を提唱し、『論語』についての言及からマンガ論までと幅広い著作活動を続ける呉智英さんとニーチェ研究と〈B層〉への批判で知られる適菜収さんとの舌鋒鋭い対論です。
おふたりの矛先はまずポピュリズム(大衆迎合主義)へと向けられます。なぜ「バカが尊重される世の中」(適菜収さん)になってしまったのか。その根源をもとめておふたりはフランス革命の再検討にいたります。ヴァンデ戦争をはじめとするフランス革命の暗黒面を語り、フランス革命の肯定面は後世が生んだものであると指摘し、ルソーの一般意志が恐怖政治やテロリズムを生むものであると論じています。
また、大衆に支持されるということがどういうことなのか、具体的な政治家や文学者をとりあげて、その落とし穴、たとえば「正義の暴走」(適菜収さん)を指摘しています。それにとどまることなく呉智英さんは、
「一種の既成概念となった正義、もしくは制度となった正義について考えたい。みんな自発的な正義だと思っているけど、それは一種の制度の中で思考している気がする。その場合、制度から外在的に考えるモーメントがほしい」(呉智英さん)
と批判にとどまることなく、何を求めていくべきか、思考しつづけている姿がこの本から浮かび上がってきます。
どのような先入観をも持たずに、先人たちの欺瞞や誤りを剔抉するおふたりのメスさばきは小気味よいくらいです。底流にあるのは「反知性主義への反論」です。反知性主義がもたらすある種の怠惰さを見逃しはしません。もちろん「英雄待望論」にもその怠惰さはひそんでいます。
「知は尊重されるべきだ」(適菜収さん)
けれど、かつての知識人が持っていた傲慢さや欺瞞性、隠された権力志向をあばくことも忘れてはいません。その上で私たちは何を求めるべきなのか、呉智英さんはこう断言します。
「みんなが平等となっても何もできなくなる。理想と現実の矛盾を自分の中に抱えこんだときに本当のいい政治ができる。しかし、それでも俺は究極の理想としては「賢者の政治」しかありえないと思うけどね」
呉智英さんのいう〈賢者〉のヒントはこの本のいたるところにあります。批判の激しさの合間にうかがえるもの、それを読んだ人自身が探し求めることをおふたりは求めているのではないでしょうか。〈賢者〉を待望することになってはいけないと思うのです。それはおふたりが批判する「英雄を待望」するという怠惰さにつながるものなのではないでしょうか。
「エリートは社会の安定だけではなくて、深みもつくっている。衆愚政治にならないようにするためには、官僚的な実務能力を持った人たちと、さらにその外側にある「何か」をつくらなければならないということだね」
という呉智英さんの結語を誤解することなく読み解き、知の実践をたゆまずに続けること、それが今私たちに必要なことなのではないでしょうか。
快刀乱麻を断つというような人物評をおもしろがって、おふたりの言葉にのるだけではダメだと思います。また、厳しい人物評からいたずらに絶望したりするものダメだと思います。魯迅がいったように「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」 のですから。
この本は、舌鋒の鋭さについ引き込まれ、おもしろく楽しく酔える美酒のようなものなのだと思います。と同時に、劇薬でもあるように思いました。ある意味で自分自身を試すリトマス試験紙のような一冊なのかもしれません。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。