「有罪率99.957パーセント、拘留決定率99.9パーセント」という数字を聞いてどこか異常さを感じるのは決して不自然ではないと思います。この数字から日本が「他の先進国には類を見ないほど超絶的に公正無私」だと思うのは大きな勘違いではないでしょうか。
森さんが記しているようにこの数字が「正当であるならば、検察組織と検察官はほとんど神的に完璧である。そして、それが、自ら「精密司法」を名乗る裁判所によって公証されていることになる。日本では、完璧な検察と正確無比な裁判所によって世にも稀な素晴らしい刑事司法が実現している──そんなはずはない」のです。
この本は元検察官の郷原信郎さんと元裁判官の森炎さんが検察と司法の実態を白日の下にさらしたものです。
有罪率99.957パーセントとはとりもなおさず「逮捕によって事実上「犯罪者の烙印」が押されてしまう、ということになり(略)さらに長期身柄拘束が社会的に是認されている」(郷原さん)という流れをつくり出すことになります。そして「そういう検察による「烙印」が、マスコミによる「評判」と結び付くことで、起訴の段階で事件が社会的に決着させられるというのが、日本の刑事司法の社会的機能の特色」(郷原さん)になっているのです。
では裁判官はどうなのかというと
「微妙な事件や検察が十分に法律構成し切れなかった事件を証拠評価上あるいは法律構成上、うまい理屈をつけて「見事な」有罪判決を書く」(森さん)ということに裁判官はプライドをかけているというのです。「特殊な裁判官が無罪判決を出しているという認識は、昔から裁判所内でもありました」(森さん)。いわば「壊れた裁判官」(郷原さん)が無罪判決を出しているという認識が検察内部にあったといいます。
これは司法権力の癒着を現している以外のなにものでもありません。それどころか戦前からの裁判所の検察への「もたれこみ」がいまだもまだ連綿と続いているのです。
このような法権力の一体化によって何が起きているのでしょうか。
ひとつには「冤罪の最も大きな原因」となる「無実の者がしてしまう自白、つまり「虚偽自白」があります。「重罪の場合には、冤罪を主張する者に対して「言い分は、公判になってから裁判所で言えばよい」と、あたかも裁判所では、その言い分が十分に取り上げられるかのように説得して、調書に署名させる」けれど公判では「99.9パーセント有罪なのですからね。結果的には詐術になっています」(森さん)
裁判所は検察の判断を追認する、あるいはお墨付きを与えるだけだといってもいいような実態が紹介されています。冤罪事件、そして検察の不祥事の数々、それらは決して例外的なことがらではありません。私たちを包んでいる法権力の歪みがそれらを生んでいるのです。
疑わしきは罰せずという原則はどこへいったのでしょうか。有名無実化されているのが実態だと言わなければならないようです。推定無罪も同様です。ここには、メディアの問題も含まれますが。
かつての冤罪事件の検証では森さんは「代表的冤罪事件で有罪判決を下した裁判官の多くは、冤罪ではないかと認識しながら、それでも、有罪判決を下していると指摘」しています。このような事態はいつまで続けられるのでしょうか。
郷原さんはこの本のあとがきで裁判員制度と検察審査会による起訴議決制度という司法制度改革に、このような法権力の独善化=独占化をくずす端緒を見ているようです。
少なくとも検察という行政権力が三権分立である司法権を脅かす行為は見逃してはならないと思います。行政権力だけが肥大化している現象がここにもあるのです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。