「優勝者のための国旗掲揚で国歌吹奏をとりやめようというブランデージ提案に私は賛成である。(略)民族意識も結構ではあるが、それ以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい」
という石原慎太郎さんの書き出しの一文に時の流れも感じられるアンソロジーですが、40人もの文学者がそろってオリンピックを語るというのは壮観です。重量挙げの三宅選手はあのロンドンオリンピックの三宅宏実の叔父さんかとか、馬術の法華津寛選手はこれがオリンピックの初陣(?)だったとか思い出す人もいるでしょう。
その一方でマラソンの円谷さんのオリンピック後の悲劇を知っている人には、ここに収録された円谷さんへの応援、声援の一文を読んで、なにやら複雑な思いをする人もいると思います。
文学者たちの饗宴の中でひときわ異彩を放っていたのは三島由紀夫さんです。修辞に磨きをかけ、一言もゆるがせにできない文章で、端正に開会式、ボクシング、体操、水泳、陸上(競歩の一節はユーモラスです)、バレーボール、閉会式をと描き出しています。なにを書いてもさすが三島由紀夫さんなんだなあと感じてしまいます。
もうひとつ忘れられないのは杉本苑子さんの一文でした。
「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆき学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうもなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した。(略)二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか」
この時から半世紀ほど立つ次の東京オリンピック、杉本さんの思いはどう伝えられて行くのでしょうか。学徒出陣の碑は、新しい競技場に据えられるようですが、それを見た私たちは何を感じるのでしょうか。
ところで〈記録か芸術か〉と話題になった市川崑監督の東京オリンピックの記録映画をこの本の横に置いてみます。この映画で描けなかったものは失礼を承知で言えば、この杉本さんの思い、三島さんのレトリック、中野好夫さんの信念のほかにはあまりないようにも思います。だれもがこの本の文章をむさぼるように読み、情景を頭に浮かべたことでしょう。それは、この時代はまだ活字(文字)文化がメディアの中心だったということなのかもしれません。そして現在はメディアの中心が映像になっています。では、次の東京オリンピックはなんのメディアが中心になって記録され、芸術化され、語り継がれるものになっているのでしょうか。(それにしてもここに執筆された人の幾人の作品が今も読み継がれているのでしょう)
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。