作家・演出家であり、近年は人生相談のコラムニストとしても活躍する著者が、「今の十代に向けた生きるヒント」として書き下ろしたのが本書である。そのタイトルは、1937年に発表された吉野源三郎の児童向け小説(そして2023年に公開された宮崎駿監督の長編アニメーション)によく似ているようで、少し違う。その理由は著者が本の巻頭で以下のように述べている。
90年近く前に書かれた『君たちはどう生きるか』は、「君たち」と十代全員に呼びかけられる時代だったと思います。
でも、今、十代の人たちに向かって、まとめて「君たち」とは呼びかけられない時代になりました。
一人一人が本当に違うからです。
好きなマンガ、好きな歌、好きな動画、好きなアーティスト、好きな洋服、好きな時間、好きな食べ物、好きな場所、それぞれがバラバラです。もちろん、嫌いなものも、みんなバラバラです。
だから「君たちはどう生きるか」ではなくて「君はどう生きるか」と問いかける必要が生まれたとぼくは思っているのです。
これが、最近よく言われる「多様性」ということです。
多様性の時代は、自由で解放されているという点ではそうあるべきだし、歓迎されるべきものだ。しかし、そこで「どう生きるか」について独力で見つけだすのは、なかなか難しい。その道筋のヒントを与えてくれるのは、これまでの考え方なら「親」とか「学校」だったかもしれない。しかし、残念ながら親も学校も「時代の変化」にまったくついてこれていない。代わりに何か「生き方の見つけ方」を子どもたちに教えるものが、今の世に求められているのではないか……そんな著者の思いが凝縮されたような一冊である。
(ちなみに30年前にも著者は映画監督として『青空に一番近い場所』(1994年)という作品を発表し、「幸福な生き方とは何か?」というテーマを追求している。機会があれば観てみてほしい)
十代に向けて書かれている本なので、文章は平易で読みやすい。教科書的な堅苦しさや、説教くささはなく、子どもの気持ちを(もどかしさや苦しさを含めて)きちんと理解する先生が、気さくに生徒に語りかけるようなトーンに貫かれている。実際に本書の一部は中学校でおこなわれた授業を元にしているという。数多くの舞台を作り上げてきた名演出家であり、ワークショップにも長年取り組んでいる著者だからこそ、「教えること」「伝えること」のうまさは折り紙付きだ。
各章で取り上げられるのは「コミュニケーション」「自分で考えるということ」「スマホ」「自信を持つために」「ルッキズム」「いじめ」といった、現代的で普遍的なテーマの数々。これらは十代に限らず、今まさに「生き方」に悩んでいる大人が読んでも、リアルタイムで十代の子供と向き合っている親が読んでも、なんらかの教えが得られるはずだ。
たとえば、ある女子中学生の質問に端を発する、グループ内での「対話」についてのレクチャーでは、多様性の時代において尊重されるべきものは何か、これまでの社会では排除されてきたものは何かを、わかりやすい例を通して伝えていく。
まず、リーダーとして知っておいてほしいのは、「もめることは悪いことじゃない」ということです。
真剣になればなるほど、もめる。だから、「もめることは、お互いが本気だ」と考えるんです。そうすれば、「もめた時」に慌てなくてすみます。
AさんもBさんも、そして部長の君も、練習に対して真剣です。だから、ぶつかる。それは素晴らしいことです。
こういう時、「和を乱すな」とか「キャプテンに迷惑だろ」とか言い出す人がいたりします。
ぼくたち日本人の中には、この考え方がものすごく強くあります。
「人に迷惑をかけないこと」が一番大切だと思ってしまってるんですね。
読者の心をつかむフレーズもたくさん散りばめられている。たとえば「ジャンケンと多数決は、対話の二大強敵」という一文。その言葉は、この国と大人たちの病んだ関係という、巨大な問題をも浮き彫りにする。
ぼくはね、日本人が「対話」が下手なのは、じつはジャンケンがあるからだと思ってるんだ。
ジャンケンっていう過保護な親がいてさ、子供が一人立ちするのをとめてるっていう印象。「君は何も考えなくていいのよ。ジャンケンがすべて決めてくれるから。その結果にただ従っていればいいんだから」って感じ。
この国は、君をずっと子供扱いしながら、「いつまでもホントに子供なんだから」ってなげいている国だとぼくは思っているんだ。「いつまでも子供だってなげきながら、子供扱いをやめない国」
時には、強い言葉を用いることもある。時には、解釈の難しい言葉が飛び出すこともある。それらはすべて、読者に「考えること」を促すためのものだ。
君が「考える」ことをジャマする二大強敵が「めんどくさい」と「普通」だ。
「めんどくさい」は人を腐らせる。この言葉が口から出るたびに、君はゆっくりと腐っていく。
びっくりした?
ぼくは人間がよりよく生きていくために必要なものは、「勇気」と「好奇心」だと思っている。
「めんどくさい」は「好奇心」を殺す。
君を変えてくれるかもしれない「新しいもの」「素敵なもの」「見たこともないもの」と出会う機会を「めんどくさい」は奪うんだ。
大学に入ることの意味について悩んでいるであろう人には、こんな言葉を投げかける。中には「あのとき聞きたかった!」と思わず声に出してしまう大人の読者もいるかもしれない。
「なんのために大学に行くのですか?」と聞かれたら、ぼくは、「ちゃんと途方に暮れるためです」と答えます。
高校までは、先生が導き、親が手を引き、先輩が指導して、「ほら、これが正しい答えですよ」と教えてくれます。
でも、大学に入ったら、「君は、君の頭で考えなければいけません」と言われます。
でも、高校までは「高校生らしくしろ」「自分の頭で考えるな」と言われ続けて、卒業した途端に、「自分の頭で考えろ」と言われてもムリじゃないかとぼくは思っています。
だから、大学に行く理由は、自分の頭で考えようとして、どうしていいかわからず、途方に暮れることだと思っているのです。
「友だちについて」という章も、もしかしたら大人のほうが目から鱗のような衝撃を受けるかもしれない。それは友人関係にも、恋愛関係にも、夫婦関係にも通じるテーマだからだ。これもやはり、生き方そのもの=他者の存在をどう捉えるかという倫理、本書でも議題となるエンパシーのあり方にかかわる問題である。思わず自分の交友関係を顧みること必至だろう。
ぼくは人間関係は「おみやげ」を渡し合う関係が理想だと思っているんだ。
「おみやげ」っていうのは、君や相手のプラスになるものだ。楽しい話でもいいし、相手の知らない情報でもいいし、お弁当のおすそわけでもいいし、優しい言葉でもいいし、なぐさめでもいいし、マンガやDVDを貸してあげるのでもいいし、勉強を教えてもいいし。
とにかく、君や相手がうれしくなったり、助かったり、気持ちよくなったりするもののことだ。
(中略)
そして、恋愛も友情も、お互いが「おみやげ」を渡し合えている限り、関係は続いていくと思っている。
この本の後半には、2006年に著者が朝日新聞の特集記事「いじめられている君へ」に寄せた文章が、まるごと再掲されている。「あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。」という一文から始まるメッセージは、かなりインパクトのある内容だったので、覚えている人も多いだろう。
あれから18年経った今、そのメッセージは私たちにどう聞こえるだろうか。当時その言葉を受け取った十代の少年少女はどうしているだろうか。今、著者はいじめについてどんな言葉を子どもたちに伝えるのか。当時あの記事に触れた人にも、まだ生まれてすらいなかった人にも、著者の新しいメッセージを、その変わらぬ力強さと重みを、ぜひ確かめてほしい。
この本でたびたび繰り返されるのが「ゆっくり考えよう」という言葉だ。「一歩一歩、少しずつ」「焦らなくていい」等々。実はそれこそが現代社会では最も難しい行為なのかもしれない。スマホが普及し、インターネットが当たり前に存在する世界では、あらゆる人間が「速度」を求め、追われている。即断即決は確かにひとつの能力でもあるが、取り返しのつかない失敗や後悔も招きやすい。自分にとって大事なことをゆっくり集中して考える訓練も、今の十代には間違いなく必要なことだろう。
さあ、君の考える「幸せ」はなんだろう。
何を幸せと思うかで、君の人生は決まるんだ。
どんな幸せを求めるかで、君の未来は決まってくる。
焦ることはないよ。
ゆっくりと「幸せとは何か?」を考えればいい。君には時間がたっぷりあるんだ。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、