日本人にとって、苔は特別な植物だ。苔は長い時間をかけて、ゆっくりと育っていく。苔むす景色は、時間の経過を感じさせる。「千代に八千代に…苔のむすまで」という歌にも、苔を通して長い時間を感じる日本人の価値観や美意識が表現されている。美しい苔を見ると私達は、長い時間をかけてその状態になったことを、瞬時に理解する。苔が時間の経過を表し、また美しさの基準にもなっているのは日本だけだろう。
日本古来の庭園において、苔は重要な役割を果たす。砂で表現された海のなかで、苔は島や陸地を形作る。あるいは庭全体を緑の苔が覆うことで、広大な森のなかにいる気分にもさせてくれる。その柔らかな緑は見る者の心を穏やかにさせ、潤いを与えてくれる。本書は庭園デザイナー/コーディネーターとして、国内のみならず海外でも庭園づくりを手がけている著者が、苔の魅力を大いに語り、その実例をふんだんに紹介してくれる一冊である。
第1章「苔を知る」では、植物としての苔の特性、苔の種類、庭園での苔の役割などが語られる。苔は自然の景観においても生命力や繁殖力、繊細で愛らしい美しさとともにダイナミズムも感じさせる存在だが、それを庭づくりの要素として古くから取り入れていたのは、日本人だけだという(ルネサンス期のイタリアで作られた庭園などの一部の例外を除き、海外ではほとんど見られないらしい)。確かにそれは日本ならではの発想かもしれない。
日本の湿潤な気候と穏やかな日差しは苔の生育に適していて、中でも、山に囲まれた京都は苔のパラダイス。苔寺として知られる「西芳寺」も、ふんだんに生える苔を、庭の景観に生かすことが、古くから実践されてきた。世界最古の庭の指南書『作庭記』には、平安時代に早くも苔を生かした作庭についての指導が記されている。
苔は見た目の美しさだけでなく、ムード醸成にも多大な貢献をしている。そのひとつが「吸音効果」だ。確かに、苔むす場所には情感豊かな静けさもセットでついてくる印象がある。
落ち葉が落ちた時、苔は「カサッ」という音をたてずに、無音で受け止める。これは、スポンジのような苔の構造に吸音効果があるから。日本人が愛する「静けさ」を、苔は守ってくれている。
第2章「苔を見る」では、そんな苔の魅力を大いに堪能できる、著者選りすぐりの京都の庭園が数多く紹介される。「クラシックな苔庭」「ランドスケープの苔庭」「フォトジェニックな苔庭」という3つのテーマで、それぞれにタイプの異なる庭を映し出すカラー写真の数々は、思わずため息が出るような美しさ。実際に訪れてみたくなること請け合いだ。たとえば、「獅子吼(ししく)の庭」と呼ばれる宝厳院の庭園には、まるで苔の絨毯のような圧倒的なビジュアルが広がる。
写真/野口さとこ
宝厳院には美しい苔が、一年中境内を覆っている。大堰川がもたらす湿潤な気候と嵐山の冷涼な空気の中、長い時間をかけて育った岩は、ビロードのようにフカフカで、煌めいている。特にここのシッポゴケは水分で艶々として、見る者の心を穏やかにしてくれる。
また、昭和の作庭家・重森三玲による大胆で繊細なデザインが堪能できる東福寺の庭園、「その生涯を庭づくりに捧げた」とも言われる往年の銀幕スター・大河内傳次郎の残した山荘の庭園など、個人の美意識やこだわりを感じさせる庭の数々も見どころ。ここでは苔がアートの一素材のように用いられている。
写真/野口さとこ
写真/野口さとこ
第3章「苔を学ぶ」では、「ウイスキーを香らせる“燃える苔”ピート」「海外の苔庭」「苔テラリウムの作り方」など、苔にまつわる10のコラムが供される。いずれの内容も興味深く、初めて知ることだらけという読者も多いのではないか。たとえば、西洋では一般的な芝を使った庭づくりが実は環境汚染の原因となっていて、代わりに苔庭が世界的に静かな注目を浴びている……というエピソードなど、アメリカの人気アニメ『ザ・シンプソンズ』にも出てきそうな内容だ。
また、「美しき苔庭を生み出したプレイヤー 庭師と施主たち」というページでは、アニメーション映画『犬王』(2022年)でもチラリと描かれた室町時代の庭づくりについても語られる。こうした背景を知れば、庭の楽しみ方にも一層深みが増すのではないだろうか。
中世には芸能や工芸などの職人仕事に従事した「山水(せんずい)河原者」と呼ばれる賤民がいて、室町時代末期には、作庭に特化した技術を持つ者も現れた。そんな中から、将軍家や有力な社寺の庭を手がけた善阿弥、賢庭といった、後世に名を残す造園職人が現れた。これが庭師のルーツだとされている。お庭の石組や石垣づくりの根本には、陰陽思想があるが、呪術や民間信仰に通じていた河原者たちが、そこで大きな役割を担っていたと言われている。
巻末には京都、そして全国の苔庭インデックスも用意されている親切設計。本書を片手に苔庭めぐりに出かけてみるのも一興だろう。苔の魅力を世界に伝えるべく活動する著者の静かな情熱を、ひしひしと、詩情とともに感じさせてくれる一冊だ。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。