ただの文様と思って眺めるのはもったいない!
読めば読むほど「そうだったの!」と感心する本だ。『そば猪口の文様 絵解き事典』に並ぶ「そば猪口」たちに描かれた文様には、江戸時代の人びとが親しんでいた文化と遊び心が刻まれている。そう、ただの文様ではないのだ。そりゃもちろん美しいが、ただ美しいだけじゃない。とても気が利いている。小さなそば猪口片手におそばをすすりながら、江戸っ子は「粋だね」なんて言っていたのかも。そんな情景が目に浮かぶ。
たとえば江戸時代に作られたこちら。杜若(かきつばた)と文、そして裏には折り鶴が描かれている。さあ、このそば猪口の文様の意味は?
江戸時代の町民にも愛されたという平安時代の歌物語『伊勢物語』を表しているのだという。では、伊勢物語のどんなお話にちなんだ文様なのだろう。
「東下り」の段は、「昔、男ありけり」で始まります。「三河の国の八橋という所に着いた。…その沢に杜若がとても趣深く咲いていた。ある人が、「かきつばたという五文字を和歌の各句の上に据えて、旅の心を詠んでごらんなさい」と言い、有名な「かきつばた」が歌われました。
さらに、武蔵の国と下総(しもうさ)の国の大きなる川、「すみだ河(隅田川)」に着き、鳥の名前が「都鳥」だと聞くと、都に残してきた人を思いやり、和歌が詠まれ、みな今日を思い出して船の上で泣いてしまいます。
この二つの歌を裏表に描き、しかも都鳥を折り鶴で表現するという、遊び心にみちたそば猪口も作られました。
杜若と文の絵を見て「おっ?『伊勢物語』だね」なんて思って、そばを口に運ぶときに裏の折り鶴に気がついてニヤッとする……そんな江戸っ子が必ずいたはずだ。文化と生活が重なっている様子がたまらない。
そば猪口は、そば食が広まった江戸時代に、肥前(佐賀県と長崎県のあたり)の窯でたくさん作られた器だ。種類がとにかくたくさんある。そしてそば猪口の魅力と本書の面白さもそこにある。
そば猪口の最大の魅力は、「多種多様な文様」です。植物、動物、人物、故事、風景、天体、幾何文様などに加え、「判じ絵(絵の謎解き)」的なものまで数えきれません。
さらに、比較的安価であること、そば食以外にも碗、湯飲み、小付として様々な用途に利用できることなども魅力です。
現代の食卓でもそば猪口は実に働き者だ。ある日は緑茶、またある日は氷と薬味を浮かべたつゆと素麺、たしかに「非番」の日がない。生活に根ざした器に、いろんな意味をもつ多彩な文様が描かれている。なんて粋なのだろう。
禅画の十牛図だってほらこの通り。
……と、ありとあらゆるそば猪口の文様の由来を知り、江戸の文化の香りを胸いっぱい吸い込み、なんだかおそばも食べたくなっちゃう。それが『そば猪口の文様 絵解き事典』だ。
「こうもり」は不吉ではない?
本書に登場するそば猪口たちは、文様の解説とともに、ひとつひとつ、文様の名称、製作年代(1610年から1860年代までと幅広い)に様式、寸法、さらに所蔵されている場所が載っている。ちなみに「そば猪口美術館」の所蔵品が多く登場する。こちらはWebサイトで閲覧できるのでぜひご覧いただきたい。時間が溶けます。
そば猪口の口径と高さは、ほとんどのものが6cm~8cmで、とても小さい。その小ささをイメージしながら読むと楽しい。たとえば、小さなそば猪口に描かれた小さな小さな「蝙蝠(こうもり)」なんてたまらない。
でも、「寿」の文字が並んでいる。そんなおめでたい存在なのだろうか? 蝙蝠文様の着物まである! 蝙蝠文様の解説を読んでみよう。
現代の日本ではあまり好まれる生きものではありませんが、中国では「蝠」の読みが「福」と同じなので、蝙蝠が吉祥とされ、日本に伝わりました。
特に、五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)は蝙蝠が大好きで、衣装に取り入れたことで、幕末期に蝙蝠文様が大流行しました。
実は、この解説に私はとても救われた。数年前に京都の古い扇子屋さんで蝙蝠文様の扇子を買い、真夏になるとパタパタ仰いで愛用しているのだが、「ハロウィーンのイメージでもないし、大好きなのだけど、それにしてもなぜ蝙蝠?」と気になっていたのだ。縁起物だと知ってますます好きになった。
言葉遊びは江戸庶民文化の背骨
クスッと笑ってしまうような文様もたくさんある。こちらのそば猪口をご覧頂きたい。芦の茂みに、よく見るとズングリとした蟹が描かれている。この蟹は、爪を振り振り、何をやっているのか。
蟹が芦を刈らないので「あしあからず」。駄洒落? そう、立派な駄洒落だ。
江戸時代には、言葉のしゃれのことを、「捩(もじ)り」「こせ事」「掠(かす)り」と言う洒落文化がありました。(中略)要するに、駄洒落・文句取りです。(中略)
これが江戸の文化の一つの領域であったというより、江戸庶民文化の背骨のようなものとして存在していました。江戸の人々は洒落を競い合い、楽しみました。そば猪口も例外ではありません。
さて、「蕪がふたつ並んだ文様のそば猪口」はどんな言葉遊びが込められているだろうか。本書に答えが書かれている。とってもおめでたいのだ。
それにしても、なぜそば猪口はここまで多種多様なのだろう。なにせ本書のような事典が編まれるくらいなのだ。源氏物語、故事、駄洒落、歌舞伎役者……本当に数え切れない。爆発的に増えている。何かきっかけがあるはずだ。
ヒントは江戸時代の文化がどう花開いたかにある。著者のひとりである飯田義之先生によるコラム「古伊万里 そば猪口の文様の由来を訪ねて」から引用したい。
十九世紀初頭より文化の拠点は、十一代将軍家斉治下、江戸が重要な枠割を担うようになりました。寺子屋の普及で識字率が上がり、大名から庶民に至るまで多くの人々が俳句、狂歌、川柳、浮世絵、洒落本などの書籍、歌舞伎、落語などに接し、嗜むことができる時代になりました。(中略)
このような下地があってこそ、そば猪口の製作者は様々な文様を工夫して提供し、江戸時代の人々がそば猪口の文様を楽しんだと思われます。
そばを食べる一瞬の器にも工夫して遊ぶ、江戸の人たちの遊び心と教養に感心してしまいます。
多くの人が文字と物語に触れて、そこに江戸の美食文化が重なり、ビッグバンが起きたのか。
文様の意味を知ると、古伊万里のそば猪口が欲しくなってしまうかも……そんな人のために、相場(意外と手が届きそうなのだ)や入手方法、そして手入れ・保管についての解説も添えられている。収集家の気持ちを想像しながら本書で文様に触れてほしい。
レビュアー
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori