2022年3月14日。ロシアがウクライナに侵攻してから少し経ったあの日、ロシアのテレビ局で起こった、衝撃の6秒を覚えている人も多いのではないでしょうか。
カバー写真/AFP=時事
第1チャンネルというロシアの放送局に勤めていたジャーナリストのマリーナ・オフシャンニコワが、生放送中突如「戦争をやめろ」の文字が書かれたポスターを掲げました。
ロシアのウクライナ侵攻に対して、ロシア人がメディアを使って真っ向から反対したセンセーショナルな“事件”です。厳しい統制が敷かれていたプーチン大統領統治下でのロシア、しかもモスクワの国営テレビ局でのこの行為は、世界に驚きと称賛をもって受け入れられました。
しかし、実のところ、その後マリーナがどうなったのかを知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。
本書では、反戦メッセージを掲げた当日の生々しい様子から、彼女が権力側ともいえるモスクワのメディアで働きながらこの行為に及んだその理由、そして決行後に待っていた拘置所生活や秘密警察の尾行、そして自宅軟禁を経て、ロシアからの決死の脱出へと至る過程が詳細に描かれています。
決行その瞬間
本書は、いきなりひとつのクライマックスから始まります。生放送のニュース番組。マリーナは番組スタッフとして働いており、分刻みのタイムテーブルのなかで一瞬の隙を突いて、事に及びます。
「戦争反対! 戦争をやめろ!」わたしは叫び、MCの後ろで大きな紙を広げた。自分の声とは思えなかった。
アンドレーエワは悠然とそのままプロンプターを読み続けた。「政府会議ではアクセスの維持について話し合われ……」
別のカメラの映像がオンエアされているのに気づいた。左のカメラのタリーランプが点いている。つまりオンエアではこの紙はMCの陰になって映っていない。わたしは視聴者が文字を読めるように、左に一歩動いた。
決行直前の描写もスリリングなのですが、決行時、メッセージが見えるように位置をずらす冷静さを持ち合わせていたことにも驚きます。実際、当時の映像を見ると確かに一歩移動していました。
たった6秒の“叛乱”。しかしその代償は大きなものでした。
反戦を訴えるに至った原体験
マリーナは多感な時期をチェチェンのグローズヌイという美しい街で過ごしています。当時、ソ連崩壊が始まるとチェチェンでは内戦が勃発。その後、ロシアがチェチェンに侵攻する第1次チェチェン戦争へと発展。マリーナはグローズヌイから脱出し、避難民となってしまうのです。大人になり、ジャーナリストとして久しぶりに訪れたグローズヌイは様変わり。当時暮らしていたアパートは瓦礫のヤマになっていました。
帰途、わたしは一言も発することができなかった。
それ以来、私は戦争を激しく憎悪した。ロシア軍が夜陰に紛れ、背信的にウクライナに侵攻した瞬間が、わたしにとっては引き返すことのできないポイントになった。わたしの内なる叛乱は日を追って膨らんでいった。
この、チェチェンにおける出来事が、彼女が強い反戦意識をもつようになったきっかけとして描かれています。また、難民であった経験も、よりウクライナへ感情移入する要因となっているのです。
意外な反応
“叛乱”決行後のマリーナは、裁判にかけられ罰金刑に処せられます。当然テレビ局からも去ることになり、FSB(ロシアの諜報機関)監視下へ。そんななか、ドイツのメディア・ヴェルト社から声がかかり、フリージャーナリストとして契約。さっそくウクライナへの取材準備に入るのですが、ヴェルト社に対して、ウクライナの若者たちが、マリーナを雇うことに反対する抗議活動を行ったのです。戸惑うマリーナがウクライナのメディアをチェックすると、こんなことが書かれていました。
「すべてのウクライナ人が、ロシアのテレビでの反戦パフォーマンスの誠実さを信じているわけではない」
「この出来事は〈やらせ〉であって、ロシアには生放送なんかない」
「オフシャンニコワはFSBの影のスパイだ。善良なるロシア人という物語と制裁解除を西側メディアに広めようとしている」
頭がクラクラした。わたしはロシアではイギリス大使館と通じていると非難され、ウクライナではFSBのスパイだと書かれる。
彼女の友人や世界中のジャーナリスト、そしてメディアが賞賛した“叛乱”ですが、いちばん届いてほしいロシア人とウクライナ人には、真意が伝わらないという辛さ。これはロシアの情報戦略による成果という側面もあるようですが、大国はひとりのジャーナリストの活動を容赦なく妨害します。取材した素材は放送NGとなり(日本のテレビ局との同行取材もお蔵入り)、予定していた会見は潰され、押し寄せるウクライナ人のネガティブな反応に、ヴェルトは彼女との契約を切ることになるのです。
そして脱出へ
本書では、“叛乱”によってマリーナと壁ができてしまった母や愛する息子、思想の違いから離婚した元夫に奪われてしまった娘との関係性も描かれます。なんとかして娘を取り戻し、治安機関の監視をかいくぐってロシアからの脱出を試みるその過程は、大ピンチのなかで軽快に飛び出すマリーナのジョークも込みで、まさにハリウッド映画を観ているかのよう。
"叛乱"に至る彼女、そしてロシアの歴史から家族愛、スリリングな逃亡・脱出劇まで、ジェットコースターのような展開の連続。しかしこれはフィクションではないのです。ロシアをはじめ、様々な人々のリアルな感情や立ち居振る舞いの描写もまた、意外な発見に満ちています。
一つの行動が家族の分断を生み、仕事も家も失い、愛する祖国を捨てることになる。大きな代償と引き換えに彼女が得たものは一体なんだったのか。“6秒の叛乱”のその先を、マリーナの人生を追体験しながら、ぜひ確かめてみてください!
レビュアー
中央線沿線を愛する漫画・音楽・テレビ好きライター。主にロック系のライブレポートも執筆中。
X(旧twitter):@hoshino2009